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館報「開港のひろば」バックナンバー


展示余話1
「蓮杖&金幣−横浜写真ことはじめ−」展
開港後最初の来日カメラマン

−P. J. ロシエの足跡−

 前号では「蓮杖以前」の営業写真家について、近年明らかになった事実を紹介した。今回は開港期に来日した外国人プロカメラマンについての新事実を紹介する。

  開港後最初に来日したプロカメラマンがロシエであろうということは以前から知られていた。しかし、その氏素性や日本での足跡が明らかでなく、幻のような存在だった。最近、イギリスの写真史研究家テリー・ベネット氏が、ロシエについて徹底的に調査した結果を、氏が経営するオールド・ジャパン社のホームページで、'The Search for Rossier ---- Early Photographer of China & Japan'として公表された。

  ロシエのフルネームは Pierre Joseph Rossier といい、1829年7月16日、スイスのフリブール(フライブルク)州に属する村 Grandsivaz の生まれ、従来フランス人と考えられていたが、そうではなくて、フランス語圏のスイスの出身であった。1855年10月、ロシエは写真家としてフランスとイギリスに旅立ち、ロンドンでネグレッティ&ザンブラ社と出会う。

  同社はイタリア人ネグレッティがロンドンで創始したガラス機器メーカーで、写真業界にも進出していた。とくにステレオカメラの製造で知られていた。またカメラマンを派遣して、ヨーロッパ各地を手始めに、エジプトなど東地中海各地の映像を収集し、組写真として販売して成功を収めていた。

  1858年、同社は第2次アヘン戦争の勃発によって注目を集めていた中国にカメラマンを派遣することにした。そこで選ばれたのがロシエだったのである。ロシエはカントンを中心に撮影活動を展開するが、フィリピンや日本にも足を伸ばした。

  1859年(安政6年)7月1日、横浜(名目上は神奈川)が開港される。それにともない、江戸に公使館、神奈川に領事館を開設すべく、イギリス総領事(のち公使)オールコックが軍艦サンプソン号に乗ってやってくる。この船にロシエも乗っていた。そしてオールコックと行動をともにしながら、開港直後の神奈川・横浜や江戸で撮影に従事したのである。

  ホームページには Views in China というシリーズの1枚として、広東巡撫柏貴(Pey Kwei)とイギリス領事パークスの会談の模様を、Views in Japan の一枚として、'General View of Yakuama' と題する横浜の野毛辺りを写したステレオ写真が裏面とともに掲載されており、後者には72の番号が記されている。

  裏面には神獣や中国の船・塔・人物のイラストが印刷されているが、それは当館が所蔵する神奈川宿(図版1)や神奈川湊(図版2)の裏面と同じであり、これらには69(図版3)・70の番号が記されている。これらはロシエが撮影し、ネグレッティ&ザンブラ社が組写真として販売したものの一部である可能性が高い。

「開港のひろば」第86号
2004(平成16)年11月3日発行

企画展
リバーサイドヒストリ
ー鶴見川ー幕末から昭和初期までー
企画展
幻の鶴見川分水路計画
展示余話2
「ペリー来航と横浜」展
ペリー直後のアメリカ船来航
−漂流民勇之助の帰国−
資料よもやま話
戦前期の外国人ジャーナリスト群像
閲覧室から
新聞万華鏡(17)
内国勧業博覧会と新聞
資料館だより

(1)神奈川宿 右下の橋は東海道と滝の川の交差点に架かる滝の橋であろう。橋詰に高札場が見える。その左手の大きな建物は石井本陣か。

(2)神奈川湊 右下に洲崎明神の鳥居が写っている。中央は宮の河岸、横浜への渡船場として利用された。

(3)台紙裏 (1)の裏。ネグレッティ&ザンブラ社が売り出した Views in China と Views in Japan に共通するデザインと考えられる。弦楽器の絵のスタンプの意味は不明。


 図版2については、「市域現存最古の写真」として、本誌30号(平成2年5月)で紹介したことがある。その時には、イギリス公使館員にしてアマチュア・カメラマンのA・A・J・ガワーが、公使オールコックとともに陸路長崎から江戸まで旅行した際、各地で撮影した写真の1枚と推測し、文久元年(1861)中の撮影と考えた。しかし、ロシエの足跡と写真の一部が明らかとなった現在、これこそ、これまで幻とされてきた、ロシエが安政6年(1859)かその翌年中に撮影した写真と考えたほうがよさそうである。

  ロシエは1864年11月帰国、郷里で写真館を経営していたが、パリで客死した(没年は不明)。郷里では「極東を旅した最初の写真家」として記憶されていた。

(斎藤多喜夫)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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