関帝廟については、幕末・明治初年にかけて初代の廟が建てられ、明治19(1886)年に境域を拡張し、明治24(1891)年にさらに大拡張を行った。「煉瓦の外壁、門牆堂宇(もんしょうどうう)の荘厳宏麗、あたかも一城廓のごとき観をていした」と『横浜市史稿』にも描かれている。現在もこの場所には、関帝廟・中華会館が所在する。
関帝廟通りを下にさがり、(5)の印の建物は駐横浜清国領事館である。1882年8月に落成した領事館で、図6は1910年頃の写真である。門をくぐってすぐ右手に煉瓦の建物、正面に樹木のある中庭、その後ろに正庁があるが、航空写真からもその配置が確認できる。
図6 駐横浜清国領事館 『日本写真帖』1910年より
横浜の案内記、『横浜繁昌記』(1903年)には、中華街に関して大意次のような記述がある。
「領事庁にもその正庁の欄間には公明正大だの徳及海甸とくかいでんにおよぶだのと書いた額がある。この庁には例の黄龍旗が翻って居り、その建築は清洋合併で傍らには館員の住宅が建てられてある。」
「この庁に次いで一見すべきは関羽廟で、之に隣りして中華会館がある。関帝廟は焼過(やきすぎ)煉瓦と中国の奇材とを以て建てられ頗る宏壮で聯牌は例の如く沢山ある」
航空写真からは、このほか(6)加賀町警察署、(7)アメリカ海軍貯炭所が確かめられる。また、貯炭所の先の123番地にはピアノ店の周興華洋琴専製所があり、(1)の印のあたりは、右手に聘珍樓・萬珍樓、左手に成昌樓という老舗料理店が並ぶ。
この写真が撮影された翌年に関東大震災が起こり、中華街は壊滅的被害をうける。震災以前のこの街には、どんな話し声が聞こえ、どういう人々の暮らしがあり、どんな風情が漂っていたのだろうか。1922年の中華街に舞い降りてみたいものである。
(伊藤泉美)
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