「禁酒会傍記」は、日時は不明ですが、17名が出席した集会の内容を記したものです。賛美歌斉唱の後、松山高吉による禁酒会についての説明や南小柿の演説などが行なわれたことが記されています。
この文書は、内務省横浜司薬場の用箋に記されています。横浜司薬場は、明治10年(1877)5月、横浜北仲通りに開設されました。オランダ人ヘールツを主任とし、薬品の検査や飲食物をはじめ衛生に関する物品の試験を行なう施設でした。明治16年(1883)五月衛生局横浜試験所と改称されています。司薬場は、直接禁酒運動と関係はなかったと思われますが、司薬場関係者が、禁酒会に参加していたのかもしれません。
2番目に綴られている文書は、小磯氏による「酒ノ起源」の写しです。
最後に綴られている文書には、11月9日午後7時半から始まった集会の様子が記されています。9名が参加し、会長による開会の祈祷と賛美歌斉唱の後、会が始まりました。会長による講義の後、稲垣信らによる講話が行なわれたことが分ります。
明治8年に創設された横浜禁酒会は、その後目立った活動をしないまま、休会状態になりました。その間の事情については、『横浜禁酒会雑誌』第6号(明治22年4月刊)に、議長であった奥野昌綱が次のように述べています。「其時此会に加入したる者ハ大抵キリスト教徒にてありしなり。而して此会を開かんとするに方り誰を議長に撰むべきかと相謀りたるに此会の議長にハ従来大酒呑にて失敗を取り飲酒の大害あることを自ら能く其味ひを知りたる者こう適当ならめとの議決により、乃ち余ハ其撰に当り、又牧野銃太郎(ママ)氏も余に劣らぬ暴酒家なりしにより副議長に撰まれたるが、氏が禁酒を破りたること露顕せしにより多くの会員を躓かせ、禁酒会ハ殆んど瓦解の有様に陥りたる」。南小柿洲吾関係文書に残された禁酒会関係資料は、短期間で散会してしまった横浜禁酒会の活動内容を今日に伝える貴重な資料です。
なお南小柿洲吾関係資料については、当館閲覧室で複製によりご利用いただけます。資料の公開をご許可下さいました南小柿由巳子氏に、記してお礼申し上げます。
(石崎康子)
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