左から針谷武志氏、西川武臣氏、岩壁義光氏
西川氏の報告「横浜の人びとはなにを見たのか」は、教科書などにはあまり取り上げられることのない艦隊員と漁民や農民の交流をとりあげた。旧家に残る日記や記録から、初めは恐怖心を抱いていた異国人が好奇心の対象へと変化し、黒船見物に出かけたりしたことがわかること、また瓦版や横浜からの手紙などで情報がすばやく広まっていることを指摘した。
またその後、警備に動員された農民のあいだで剣術が流行するなど階級意識に変化のきざしがみえたり、台場建設の工事で経済が活性化するなど、ペリー来航が庶民や地域にさまざまな影響を与えたと述べた。
岩壁氏の「描かれた黒船と異文明」は、おもに〈黒船絵巻〉の作成と流布を論じた。当初は〈記録〉のために写生から作画された人物・文物・風景などが、流布するなかで種々のヴァリエーションを生んだ例、既存の異国人の絵を模写して別のものに仕立ててしまった例、伝聞などの情報からイメージとして描いた奇妙な人物像など、豊富な画像資料を交えて論証した。
画像資料は文献史料を補完するもので、「百聞は一見に如かず」であるが、ペリー来航を描いた絵巻にも明治期に作成されたと考えられるものもあるように、史料としては「必ずしも真ならず」を銘記すべきだと指摘した。
ペリー来航の意味は、との加藤氏の問に、〈何を守るべきか〉の認識が変わり、〈日本〉を守るという危機意識が共通化してくる(針谷)、庶民が黒船見物を楽しむなど避戦が重要であった(西川)、横浜で交流があったことが日本の開国のあり方を左右したのではないか(岩壁)との発言があった。
最後に、加藤氏が日米和親条約を近代国際政治の概念図(対等性と従属性を軸にした各国の関係)のなかで位置付け、避戦による交渉条約であったことが大きな意義があったと締めくくった。
(伊藤久子)
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