万延元年遣米使節
翌1860年(万延元年)2月、4回目に日本に向かう航海の途中、フランク・Wは江戸湾の入口で、遣米使節をのせてサンフランシスコへ向かうポーハタン号とすれ違った。
故郷ハートフォードでもチニー・ブラザーズ社の人びとが遣米使節に大いに関心を寄せていた。使節の歓迎に沸くワシントンやニューヨークの様子が父や弟から伝えられている。使節がハートフォードを視察するという話もあったらしいが、それは実現しなかった。使節に会見できれば、フランク・Wの日本での活動に役立つのではないかと考えた叔父ウォードは、ニューヨークまで出かけて行ったのだが、結局使節には近づけずに終わった。
遣米使節は、その年の秋ナイアガラ号で戻ってきたが、フランク・Wはちょうど最後の日本訪問で横浜に滞在しており、彼の手紙は使節を迎える祖国の冷たい空気を伝えている。使節団の上陸は危険だろうと多くの人びとが考えており、なかには打ち首になるか流刑になるのではないかと言う人までいたという。
最後の横浜滞在と帰国
1860年秋のフランク・Wの最後の横浜滞在は4カ月近くにおよんだ。横浜は早春に訪れたときに比べると、ほとんど2倍に拡大し、建物もずっとしっかりしたものになっていた。まだ新開地の荒々しさは残っていたが、商売は以前よりずっと秩序立っていていて、フランク・Wは生糸144俵、真綿10俵を買い入れることができた。
フランク・Wは生糸の買い入ればかりでなく、故郷から輸出用に送られてきた金巾(綿布)などの売り込みにも挑戦した。日本人はようやく輸入品を受け入れ始めていたが、アメリカ製綿布はなかなか売れずに苦労している。
横浜から上海に戻ってみると、故郷からの手紙はリンカンの大統領当選を伝えるとともに、金融状況の悪化のため生糸への投資を見合わせるように指示してきた。フランク・Wは2年間の中国滞在に終止符を打ち、帰国の途についた。彼は太平天国革命や第二次アヘン戦争など動乱の中国から南北戦争さなかの故国へ戻っていったのである。
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