1859年5月中旬、フランク・Wは上海を訪れたハリスに会った。また中国人商人とラッセル商会が長崎で買い入れた日本生糸を入手することもできた。彼は日本貿易に多くの人が注目しており、利益をあげるには「すばやく動かなくてはならない」ことを理解していた。
日本訪問のチャンスはまもなくやってきた。フランク・Wは中国滞在中に6回訪日しているが、最初の訪問先は長崎だった。彼が訪れたのは6月下旬から7月上旬にかけてだったが、長崎には貿易商人が殺到していて品物は払底状態だった。滞在中に安政5カ国条約による7月1日の開港の日(アメリカは7月4日)を迎えるが、フランク・Wにはとくに目新しいことはなかったようである。アメリカ人は少人数で7月4日の独立記念日も静かに過ぎたという。
その年の10月、フランク・Wは米艦ポーハタン号のタットナル司令官に招待されて、中国駐在公使ウォードの日本旅行に同行することができた。着いてみると「神奈川」の対岸にまったく新しい町「横浜」ができていた。「私たちが西部のどこかで建設するくらいすばやく、倍ぐらい上手く」造りあげてあった。
江戸では米公使館の通訳ヒュ―スケンの案内で見物に出かけたが、大勢の見物人が押し寄せた。フランク・Wは以前から日本人に好感を抱いていたが、ますます好きになったと書いている。日本人は「これから先何年か、いわゆる文明世界と交渉をもつことによって善よりも悪を得るのではないか」と危惧している。
2カ月後、フランク・Wはふたたび横浜へ渡り、2週間の滞在で期待通りにビジネスチャンスをつかむことができた。彼が以前に送った日本生糸の荷はようやく故郷に到着しており、叔父ウォードからの手紙には、強さが不足しているとあったが、父チャールズは、安くて良質で、まさにチニー・ブラザーズ社が欲しい生糸だ、と言ってきていた。
横浜でフランク・Wは日本家屋に住んで生糸の買い入れにあたった。貿易はまだ原始的な方法で行なわれており、彼は買い入れ、検査、支払い、梱包、出荷をすべて自分でやらなくてはならなかったが、同行した中国人の使用人がどこへ行くにも同行し、倉庫係や貨幣鑑定人の役目を果たしたという。貨幣問題や幕府の輸出制限など日本はまだ「開国して」いるとは言い難く、肝心のアメリカ公使ハリスも「相当なペテン師で、現在のところ、問題の調整のために何か手を打っているようには思われません」とあてにならない。それでもフランク・Wの生糸の買い入れは上々で、目的を果たせて楽しい旅となった。
フランク・Wは1859年に横浜で借地を得ており、翌年6月にその地所をハード商会のA・F・ハードに譲渡している。彼が借地を入手したのは、この2回目の横浜訪問のときだったのだろう(拙稿「ハード商会横浜店の平面図」、本誌35号)。
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