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館報「開港のひろば」バックナンバー


上海へ

 シルク産業の利益は原料である生糸の価格や品質に大きく左右される。1858年、前年に比して大幅な減益を経験したチニー・ブラザーズ社は、フランク・Wを生糸の買い入れのため中国に派遣することになったという。さらにフランク・Wの使命として、中国で生糸取引の実態を把握し、アメリカの商社各社を調査し、チニー・ブラザーズ社にとって最適の商社を選ぶという重要な任務があった。同社はそれまでの商社との取引やロンドン市場での買い入れに不満や不信を抱いていたに違いない。

 フランク・Wは、ロンドンやリヨンで中国貿易の関係者に会ったり、「実践より理論のほうがはるかに容易な」生糸の買い入れを体験したのち、1859年4月上海に到着、オリファント商会に居を定めた。彼は早速、ハード商会やオリファント商会(いずれも米国商社)を通じて生糸を買い入れ始めたが、アメリカでは中国での商慣行についてほとんどわかっていないことを発見する。「上海に数日いて、あちこち駆け回れば、望みどおりの種類の生糸を1年分調達できる…」と考えるのは誤りで、上海では、まず自社の買弁に話をし、「じっと座ったままで、すべてを自分のところへ来させなくてはならない」のであった。

 数カ月後、彼は、それまで何度も誘われていたハード商会に滞在先を移し、10月末にはアメリカ商会各社について全体的な評価をくだした。彼が見るところ、ハード商会に対するそれまでの不満や非難は、中国の商慣行や市場に無知だったためであり、同社が迅速によくやってくれること、自社の生糸検査人を擁していることなどから判断して、取引相手をハード商会にしぼるのがよいと故郷に報告した。


日本へ

 フランク・Wは出立したとき、ロンドンやパリのエージェント、中国貿易の商会、上海の大手の商会などにあてた多数の紹介状を携えていたが、そのなかには駐日公使ハリスあてのものもあった。チニー・ブラザーズ社はまもなく始まろうとしている日本貿易にも関心を寄せていた。

「開港のひろば」第80号
2003(平成15)年4月23日発行

企画展
ある明治人の半生涯
−『佐久間権蔵日記』にみる地方名望家と地域の歴史−
「佐久間権蔵の半生涯」
展示余話
−石井光太郎氏の旧蔵資料から−「新編武蔵風土記 久良岐郡本牧領 清書校合本」
資料よもやま話1
フランス山から遺構、発掘される
資料よもやま話2
フランク・W・チニーの冒険
−開港当初の日米貿易−

チニ−兄弟と絹織物産業
日本へ
万延元年遣米使節
最後の横浜滞在と帰国
新聞所蔵状況をインターネットで公開
資料館ニュース
資料館だより

 1859年5月中旬、フランク・Wは上海を訪れたハリスに会った。また中国人商人とラッセル商会が長崎で買い入れた日本生糸を入手することもできた。彼は日本貿易に多くの人が注目しており、利益をあげるには「すばやく動かなくてはならない」ことを理解していた。

 日本訪問のチャンスはまもなくやってきた。フランク・Wは中国滞在中に6回訪日しているが、最初の訪問先は長崎だった。彼が訪れたのは6月下旬から7月上旬にかけてだったが、長崎には貿易商人が殺到していて品物は払底状態だった。滞在中に安政5カ国条約による7月1日の開港の日(アメリカは7月4日)を迎えるが、フランク・Wにはとくに目新しいことはなかったようである。アメリカ人は少人数で7月4日の独立記念日も静かに過ぎたという。

 その年の10月、フランク・Wは米艦ポーハタン号のタットナル司令官に招待されて、中国駐在公使ウォードの日本旅行に同行することができた。着いてみると「神奈川」の対岸にまったく新しい町「横浜」ができていた。「私たちが西部のどこかで建設するくらいすばやく、倍ぐらい上手く」造りあげてあった。

 江戸では米公使館の通訳ヒュ―スケンの案内で見物に出かけたが、大勢の見物人が押し寄せた。フランク・Wは以前から日本人に好感を抱いていたが、ますます好きになったと書いている。日本人は「これから先何年か、いわゆる文明世界と交渉をもつことによって善よりも悪を得るのではないか」と危惧している。

 2カ月後、フランク・Wはふたたび横浜へ渡り、2週間の滞在で期待通りにビジネスチャンスをつかむことができた。彼が以前に送った日本生糸の荷はようやく故郷に到着しており、叔父ウォードからの手紙には、強さが不足しているとあったが、父チャールズは、安くて良質で、まさにチニー・ブラザーズ社が欲しい生糸だ、と言ってきていた。

  横浜でフランク・Wは日本家屋に住んで生糸の買い入れにあたった。貿易はまだ原始的な方法で行なわれており、彼は買い入れ、検査、支払い、梱包、出荷をすべて自分でやらなくてはならなかったが、同行した中国人の使用人がどこへ行くにも同行し、倉庫係や貨幣鑑定人の役目を果たしたという。貨幣問題や幕府の輸出制限など日本はまだ「開国して」いるとは言い難く、肝心のアメリカ公使ハリスも「相当なペテン師で、現在のところ、問題の調整のために何か手を打っているようには思われません」とあてにならない。それでもフランク・Wの生糸の買い入れは上々で、目的を果たせて楽しい旅となった。
フランク・Wは1859年に横浜で借地を得ており、翌年6月にその地所をハード商会のA・F・ハードに譲渡している。彼が借地を入手したのは、この2回目の横浜訪問のときだったのだろう(拙稿「ハード商会横浜店の平面図」、本誌35号)。





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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