「佐久間権蔵の半生涯」
今回の企画展示は、「佐久間権蔵日記」を通して筆記者とその家族、地域の歴史を紹介するものである。日記は、開港資料館の開設準備中に、鶴見区の佐久間亮一氏が当館に寄贈された同家の所蔵資料の一つであった。開館後、亮一氏を交えて家蔵資料の保存や貴重な古文書・記録、先々代権蔵の日記などについて座談会を持つ機会があった(有隣堂『有鄰』昭和58年1月号)。横浜に資料館が出来たら、家で保存してきた資料は全部預けようと、先代道夫氏が亮一氏と相談して決めていたとのことだった。お二人のご厚意に報いるためにも、佐久間家資料の活用と普及は資料館の責務である。蔵書を含む資料の全ては目録を作成して閲覧に供し、数年前からは「日記」の翻刻・刊行を始め、現在第5集(大正5年)まで刊行している。今度の展示では、凡そこの頃までを対象とした。本稿では「ある明治人」=佐久間権蔵の前半生を綴り、以て展示観覧の一助にしていただきたい。
佐久間家と権蔵
佐久間権蔵は、文久元年(1861)武州橘樹郡鶴見村(現、鶴見区)の名主、佐久間家第14代権蔵の長男に生まれた。幼名を文平(のち亮弼)と言った。父権蔵(亮義)は、都筑郡寺山村の遠藤氏の出で、母は第13代権蔵の長女しの。この祖父権蔵は、天保年間、鶴見川への築堤をめぐる対岸・川上19か村との訴訟事件で、一村の利害を代表し、幕府評定所の裁定に服従しなかったとして入牢となった。祖母は明治36年まで健在だったから、この大事件や祖父の事績、名主家の厳しい倫理道徳などを常日頃聞きつつ成長したのだろう。父は鶴見村最後の名主となり、維新後は村用掛、鶴見・生麦等4か村連合村会議員などを務めた。
佐久間家の庭で 後列中央が権蔵(亮弼)、右先代権蔵(亮義)、左長男道夫、前列左から妻かね、母しの、長女芳子。 佐久間亮一氏寄贈

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