家蔵資料への思い
佐久間家には、江戸期からの古文書・記録が数多く伝来していた。大正4年6月、横浜史談会の加山道之助(のち市史編纂主任)と万朝報記者(曽我部俊治か)が来訪し、来る7月2日から開催する第1回横浜史料展覧会への出品を依頼し、権蔵は太政官高札を貸与した。それから数日後、権蔵は家の古文書を調べ始める。寛永期の水帳(検地帳)や正徳・宝暦期の御用留等を探り出し、水帳に佐久間家初代の名を見付け、「懐古ノ情転タ禁シ難シ、余等後エイノモノ益々励精努力」せねばならぬと記した(6月24日)。大正15年6月、加山が横浜市史編纂嘱託の堀田璋左右と弦間冬樹を同行して再び佐久間家を訪ねた。弦間らは、数日にわたり家蔵資料を筆写した。関東大震災後に、関係資料を遠く市域外に求めての資料採訪だった。現在当館に、彼らが筆写した「鶴見村佐久間氏文書」3冊が引き継がれている。
明治16年の日記帳に、9月の晴れた2日間、書籍を虫干しした記事がある。佐久間家の蔵書や資料の状態は比較的良好で、大切に保存が講じられてきたようだ。昭和43年、佐久間家では、家蔵資料を研究利用に供する目的で「佐久間文書目録」を公刊し、次いで『鶴見村誌』『鶴見川誌』を編纂・出版した。目録掲載の個別資料には蔵書ラベルが貼付され、貴重文書は裏打ちされている。何より、家蔵資料を守り伝える伝統、保存の努力が、旧家所蔵文書の中で質量とも最大級の「佐久間家文書」を現在に残す事になったのである。
佐久間家と地域
鶴見は近世期以来、鶴見川の氾濫に見舞われてきた。明治43年の夏には、連日の降雨で多摩川に続いて鶴見川の堤防が決壊し、交通は遮断され、洪水が宅地・田畑に溢れた。翌44年春、今度は蒸気機関車の火の粉が沿線の小屋に燃え移り、北風に煽られ東海道沿いに150戸を焼失した。こうした災害のつど、佐久間家では罹災住民へ炊出しを行った。大火の折、佐久間家は奇跡的に類焼を免れ、罹災者の避難所となった。権蔵は役場員とともに、援助物資や義捐金の分配、被害調査、書類作成、鉄道院との補償交渉に当たった。檀家総代を務める天王院は、大火の20日程前に「強烈ナル火烟ノ為メニ鉄道接近家屋ノ火災往々トシテ有之、当堂宇ノ如キモ線路ノ距離僅々十有余間ニ不過シテ実ニ寒心ニ不堪」との理由で、移転願いを提出したばかりでの災禍であった。
同年末、曹洞宗大本山の総持寺が石川県から移転し、遷祖式が行われた。鶴見は、近代の門前町としての性格を併せ持つことになる。総持寺では、全国の末寺の檀家総代や名望家を「勧募委員」に任命し再建資金を集めたが、権蔵や村内第一の資産家である中西重造へ移転用地買収の交渉全権を委ね、地元地主の協力の取り纏めを依頼した。
横浜や川崎、橘樹郡南部に進出した会社・工場は、交通至便な鶴見地域に住宅用地を求める。資本家は、この地の名望家である佐久間権蔵に住宅用地や工場用地の斡旋仲介を依頼し、権蔵は積極的に応えることで自家醸造味噌の売り込みを図った。会社・工場の幹部社員、東京へ通勤する銀行員らが佐久間家の貸家に入居し、佐久間家では貸家経営を拡大していく(『佐久間権蔵日記』第5集解題を参照)。
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