権蔵の教育、民権時代
新時代の波は、開港場横浜と東京の間の東海道沿いの村々にいち早く押し寄せた。明治2年(1869)電信線の建設に続き、翌3年には鉄道路線の測量が始まり、寺院に鉄道や駅舎御用の官員たちが寄留した。佐久間家の屋敷裏に線路が敷設され、5年鶴見駅が開業した。6年、学制に基づく小学校が天王院に開校した。小学校開設に先立ち、文平は4年6月から東京狸穴町の飛田方に寄宿し、儒学者高須正路の私塾「酔経堂」で学んだ。開業願には、習字と筆道とあるが、ここで儒学や詩文の教育を受けた。期間は7年末まで、年齢では11から14までの3年半だったが、密度の濃い修業時代だった。折から東京市中には政府批判、自由民権の運動と言論があふれ、文平は諸新聞・雑誌から記事を筆写し、民権思想と運動に共鳴していく。佐久間家蔵書に残る多くの外国の翻訳書、啓蒙書や法律書に、勉学と民権思想への傾倒の跡が残されている。現在、明治15年8月15日付け島田三郎の書簡が残っている。亮弼の立憲改進党加盟の希望に対し、党員がその地を巡回した折に手続きするよう答えたものである。翌16年の従弟の年賀には、新聞紙上で亮弼の入党を知ったとある。
「佐久間権蔵日記」
明治16年、この年の日記が残されている。日記帳は大蔵省印刷局製の「当用日記簿」、神奈川町の義兄小泉長左衛門から贈られた。前年来縁談話が進行しており、3月に式を挙げた。結婚という人生の節目が日記を始める一因となったのかも知れない。亮弼22才、妻かね16才であった。亮弼は、家の田畑仕事の傍ら友人と時事や政治を語り、妻や周辺の女性たちに読書や学問を勧めた。1月、銀座の博文社からベンサム著・島田三郎訳『立法論綱』、予約本『類聚法規』を求めた。当年の日記は、民権運動の洗礼を受け、実生活の中で「人智ヲ開発シテ自由ヲ増進シ社会ヲ改良シテ国恩ニ報」(10月7日)いようと行動する民権青年亮弼の姿を彷彿とさせる。佐久間家では、父権蔵が10年前後から西洋野菜・果樹類の栽培と販売に取り組んでいた。特に、葡萄は三田育種場から各種の苗を買入れたり、栽培家を訪ね培養法を質問したり研究を重ねた。亮弼は、父を見倣い、使用人に率先して田植えや除草、水引、また穀物や蔬菜の播種、手入れ、収穫に汗を流した。
彼の日記は、この後明治43年まで無い。中断したか、何らかの事情で失われたか不明だが、青壮年期の生活と自省の記録の欠如は残念である。この年の暮れ、近く徴兵令改正があり長男も兵役を免れ得ないとの噂が流れ、佐久間家ではあわただしく亮弼への家督相続届を出した。
味噌醸造業を創める
19年、25才の亮弼は味噌醸造を創業した。8月5日から東京本郷の高橋吉兵衛老の斡旋により岩井芳五郎の指導をうけ、醸造法を自身で極めようと使用人を助手に日夜精励、麦味噌100樽・相白味噌60樽の醸造に成功し、暮れの12月29日に初出荷した。味噌売揚帳の冒頭に、創業の苦心と「浅く百事を考んよりは深く一事を慮れ」との格言を記している。この後、精米器に電力モーターを導入(明治45年)、麹室に蒸気機関を使用(大正3年)、需要動向に麦味噌から仙台味噌への転換を図る(4年)など工夫を重ね、貸地・家作経営と共に、佐久間家の家業として発展させた。
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