労働運動の始まり
『神奈川県労働運動史(戦前編)』(神奈川県労働部労政課、1966年)によると、大正初期の沖仲仕の作業時間は10時間がきまりであったが、船主の都合で時間外労働も多く、休息は昼食時の30分だけであった。波浪の激しい日も、風雪のなかでも作業が強行され、文字通り命がけの仕事であって、死傷者も絶えなかった。吉川英治も転落事故で重傷を負っている。
大正9年(1920)3月27日、全国的な労働運動の高揚に支えられて、はじめて港湾労働者の大規模なストライキが発生し、賃金値上げに成功した。争議終了後の4月8日、争議団は甲種・乙種を網羅する横浜港労働組合を設立するとともに、さらに待遇改善の要求を提出した。要求の第一に挙げられたのは死傷・疾病に対する救済措置、第二が勤続手当、以下、時間外手当、特別作業手当などであった。これに対して13日に横浜港人夫請負組合から具体的な回答があり、要求のかなりの部分が受け入れられた。待遇改善が明文化されたという意味でも画期的なものであった。
しかし、争議の早期円満解決の陰に「浜の藤平親分の尽力」があったといわれることに象徴的に示されるように、長年の親分・子分関係がそう簡単に払拭されるものではなく、経営側はただちに巻き返しに出て、甲種労働者のみ横浜港仲仕共済会という労使協調組織に取り込んでしまった。そこで乙種労働者たちは横浜仲仕同盟会という別の組合を作ることになり、5月1日、第1回メーデーを実施するとともに創立大会を開いた。
仲仕同盟会が取り組んだ運動の一つは休憩所の設置であった。早朝仕事に就くまで、雨や寒風の中でも戸外で待っていなければならなかったからである。運動は県庁を動かし、12年に2つの休憩所ができたが、1カ月後に起きた関東大震災で破壊されてしまった。しかし、その後再建され、医療や娯楽の設備を備えた港湾労働会館に発展する。(山上房吉「横浜仲仕同盟会の結成から休憩所の設立までの回顧」『郷土よこはま』22号〈昭和35年9月)
もう一つは、宣伝と自己啓発を兼ねた機関誌『団結』(写真(3))の刊行であった。これには弁護士や医師など各界の知識人が協力している。
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