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館報「開港のひろば」バックナンバー


旧家に残された資料から
−橘樹郡茶業組合について−


 平成14年(2002)10月30日から開催された 「旧家の蔵から」 展では、旧家に残されたさまざまな資料を紹介し、幕末から明治時代という激動の時代を横浜の人びとがどのように生き抜いてきたのかを再現しました。その中で、明治時代になって勃興したいくつかの産業に関する資料を展示し、開港場周辺の農村がしだいに変化していく様子を概観しました。

 横浜市域の農村では、開港後、開港場の影響を強く受け、西洋野菜の栽培や牧場経営に乗り出す農民があらわれました。また、輸出品であった茶の生産や養蚕を生業にする人びとも増加しました。旧家の蔵には、そうした活動を現在に伝える多くの資料が残されましたが、その一つに 「神奈川県橘樹郡茶業組合規約」 と題された茶業組合に関する資料があります。

 この資料は、鶴見区獅子ケ谷の旧家横溝家に残されたもので、明治17年(1884)5月に作成されました。この資料が作成された当時、横浜港からは大量の茶がアメリカ合衆国へ輸出されていました。輸出の中心は緑茶で、1890年頃まで重さにして年間2000万斤台後半から3000万斤台前半の輸出が続きました。

 こうした輸出の盛況によって、全国各地で茶の生産が増大しましたが、神奈川県においても、この頃、茶の生産が増加しました。もっとも、神奈川県の茶業の展開度は全国的にみれば大変低く、この頃の神奈川県の製茶生産額は全国府県の中で30位以下でした。しかし、横浜市域においては、何人かの農民たちが茶に注目し、茶園の経営に乗り出していきます。

 ちなみに、現在の横浜市域に含まれる久良岐・橘樹・都筑・鎌倉の四郡の1戸あたり平均茶畑所有反別は約6反3畝で(明治17年『神奈川県統計書』)、それほど広いものではありませんでした。しかし、それでも貿易と結びついた産業が勃興し始めていたことになり、茶業の展開は農民たちが新しい時代の中でさまざまな摸索をしていたことを伝えています。また、横溝家に残された資料は、始まったばかりの茶業の様子を伝える貴重な記録のひとつといえます。

「開港のひろば」第79号
2003(平成15)年2月5日発行

企画展
「郷土を誌(しる)す
−近代横浜・神奈川の地誌−」
企画展
『吉田沿革史』と『吉田誌』
人物小誌
関東の大遊園地・花月園と平岡広廣高
資料よもやま話
港で働く人びと
−昭和8年(1933)の調査から−
閲覧室から
新聞万華鏡(11)
資料館だより

 橘樹郡において茶業組合が結成されたのは明治17年(1884)5月のことで、横溝家に残された資料は県下で最初に作られた茶業組合規約でした。規約には、組合が神奈川県の布達(甲第17号布達)に基づき結成されたこと、組合の名称を 「神奈川県武蔵国橘樹郡茶業組合」 とすることが記されました。

 また、規約は全部で7章24条からなり、最後の部分に組合員の名簿が付されました。名簿には、販売人と製造人がみられますから、組合は生産者と茶の販売者によって組織されたようです。

 組合結成の目的については、第2章で定められ、「茶業上一切の悪弊を矯正し、進歩改良を図る」 とされ、品質の悪い茶を混入すること、茶を着色することなどを禁止することが決められています。この地域においては、江戸時代から少量の茶が生産され、主に自家用に消費されていましたが、横浜開港によって生産規模が拡大し、品質についても良質なものを生産することが求められていったようです。

 茶園経営者の中には、茶業生産の先進地であった宇治(京都府)や駿河(静岡県)から茶師を招き、先進的な技術を導入することに努めた人もいましたから(拙著 「19世紀後半の横浜近郊農村における商品流通」 老川慶喜・大豆生田稔編『商品流通と東京市場』日本経済評論社発行を参照)、組合結成は、そうした技術改良の動きを郡全体に広げようとしたものと考えられます。

 また、第3章以下では、組合員に組合員証を発行すること、組合員証には神奈川県の県印を捺すこと、組合の規約に違反した者は始末書を神奈川県に提出すること、組合委員を公選することなどが定められました。

 さらに、規約には委員のほか茶製造人・茶商人総代として大豆戸村(港北区)の椎橋宗輔、溝口村(川崎市)の鈴木清助・鈴木清左衛門、神戸町(保土ケ谷区)の斉藤貞三郎、青木町(神奈川区)の中島皆五郎、新宿町(川崎市)の高島金蔵が名前を載せ、彼らが組合結成の中心になったようです。

 最後に組合員ですが、組合員(販売人・製造人)の居住地は橘樹郡全域に広がっています。また、販売人が居住した町村は、神奈川町・青木町・子安村(以上、神奈川区)、南綱島村(港北区)、市場村(鶴見区)、帷子町(保土ケ谷区)、井田村・久根崎町・新宿町・砂子町・渡田村・南加瀬村・溝口村・菅村・中野島村・生田村・登戸村(以上、川崎市)の17に達しました。

 一方、製造人が多く住んだのは、下菅田村(神奈川区)、市場村(鶴見区)、帷子町(保土ケ谷区)、溝口村・二子村・馬絹村・宿河原村(以上、川崎市)などでした。それぞれの製造人の茶畑所有反別についての記載はありませんが、横浜市東部から川崎市にかけて茶畑が広がりつつあったことがうかがわれます。現在、この地域に茶畑は残っていませんが、茶畑は失われた景観のひとつといえるのかもしれません。

 ここで紹介した資料も含め、展示に出品した資料の多くは閲覧室で閲覧することができます。利用の方法については閲覧室でお尋ね下さい。旧家に残された古記録を読みながら、横浜市の発展に寄与した先人たちの活動に思いを馳せていただければ幸いです。また、展示に資料を提供いただいた旧家の方々に深く感謝します。

(西川武臣)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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