歴史がたどれる最古の遊園地は、1853年(嘉永3)開業の浅草の花やしきである。しかし花やしきの敷地は小さく、六区、浅草12階、ルナパークなどを含む全国一の盛り場浅草の一部であった。また、戦前からの歴史を有する郊外型遊園地も、花月園のスケールと先駆性には及ばない。
関東における大遊園地は戦後をのぞけば、その多くが関東大震災前後、電鉄資本の旅客誘致策として開設された。震災前の1922年(大正11)に荒川遊園ができ、震災後の1925年(大正14)の谷津遊園・多摩川園、1926年(昭和元)の豊島園、1927年(昭和2)の向ヶ丘遊園・京王閣、と開業が続く。しかし、荒川遊園は規模が小さく、谷津・向ヶ丘は海浜や自然を利用した公園の色合いが強い。豊島園はウォーターシュートはあるものの基本的にはテニスコート、プール、卓球場などの、一大スポーツランドであり、いずれも遊具の充実は戦後である。多摩川園・京王閣は、大浴場が呼び物で家族連れが楽しめ、さらには当初から遊具も充実していた。とくに東急系の多摩川園は敷地も広く、花月園に次ぐ関東の現代遊園地であった。
花月園は新橋の料亭「花月楼」亭主平岡廣高によってパリ郊外の児童遊園地を手本にし、子どもの健全な育成を目的に建設された。チルドレンズ・パークと名付けられた広場やテニスコート、グラウンドをもち、1916年(大正5)から「日本全国児童絵画展」を開催。少女歌劇団・活動写真館・ダンスホールを設立し、ホテルまでもった。起伏の大きな地形を利用して、ヒル・ウエイター(ケーブルカー)や大山すべり(50メートルの大すべり台)、つり橋などを設置した。また、豆汽車・サークリングなどの機械遊具も備えた。毎年新しい遊具や施設を導入し、3ヶ月単位でアトラクションを変えたという。拡大路線をひた走り、開園時2万5千坪であった敷地は、昭和初期には公称7万坪に達し、従業員は200人以上にふくれあがった。
東京近郊で遊園地が建設されつつあるなか、園主平岡廣高は、『横浜貿易新報』1926年(大正15)4月18日の紙上で、「設備を大にすればするに連れて、借財は嵩み利息は殖え税金は増し地代は騰り」、花月園の事業展開が難しい状態にあり、一週間1回の来園を、と読者に訴えた。そこには、長期にわたる不況や、多摩川園などの開業が影をおとしていることは疑いない。しかし1931年(昭和6)、松屋浅草店が開業し、その屋上が機械遊具をもつ「スポーツランド」として整備されると、花やしきが寂れてしまったように、常に新しいものを求める入場客の移ろいやすい心理が、平岡を拡大路線に駆り立てたものと思われる。関東における現代遊園地の先駆者は、その経営の行き詰まりをも先駆的に経験したのであろう。この点乗客獲得策の一助として設立された電鉄系遊園地とは異なっていた。
花月園は1933年(昭和8)、平岡の経営から、京浜電鉄・大日本麦酒を大株主とする経営に移行した。その翌年、子どもの健全な育成を花月園に託した平岡廣高は、73才の人生を終えた。
平岡廣高 『花月園弁天堂絵馬集』(1925年9月刊)より
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