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館報「開港のひろば」・その他連載 「開港のひろば」バックナンバー


関東の大遊園地・花月園と平岡広廣高

花月園の鳥瞰図 1925年(大正14)当館蔵
画像


 近年の日本近代史研究では、これまであまり顧みられることの少なかった家計簿や、百貨店や娯楽などの消費文化史の研究がすすめられつつある。とくに遊園地は、橋爪紳也『日本の遊園地』(講談社現代新書 2000年)など、手頃な概説書も刊行されている。

 横浜の遊園地の歴史は、横浜市立図書館報『横浜』第8号(1990年3月)が、「横浜遊園地物語」と題した特集を組んでいる。そこには「当時考えられる遊戯機械、設備、施設が殆ど取り入れられ」ていると評して、現在跡地が競輪場となっている鶴見の花月園が紹介されている。ここではこれまでの遊園地研究で、ほとんど取り上げられてこなかった花月園を、より広い視野から位置づけてみたい。

 遊園地の歴史的系譜については、ここでは詳述しない。現代遊園地の構成要素を、1.広大な敷地、2.充実した遊具(機械遊具含む)、3.客を引きつけるアトラクション、4.子ども・家族重視の経営、の4点に見いだすなら、全国では、阪急資本の宝塚ファミリーランドが1911年(明治44)開園で最古であるが、1914年(大正3)創設の花月園は、関東における先駆であった。

「開港のひろば」第79号
2003(平成15)年2月5日発行

企画展
「郷土を誌(しる)す
−近代横浜・神奈川の地誌−」
企画展
『吉田沿革史』と『吉田誌』
展示余話
旧家に残された資料から
−橘樹郡茶業組合について−

資料よもやま話
港で働く人びと
−昭和8年(1933)の調査から−
閲覧室から
新聞万華鏡(11)
資料館だより

 歴史がたどれる最古の遊園地は、1853年(嘉永3)開業の浅草の花やしきである。しかし花やしきの敷地は小さく、六区、浅草12階、ルナパークなどを含む全国一の盛り場浅草の一部であった。また、戦前からの歴史を有する郊外型遊園地も、花月園のスケールと先駆性には及ばない。

 関東における大遊園地は戦後をのぞけば、その多くが関東大震災前後、電鉄資本の旅客誘致策として開設された。震災前の1922年(大正11)に荒川遊園ができ、震災後の1925年(大正14)の谷津遊園・多摩川園、1926年(昭和元)の豊島園、1927年(昭和2)の向ヶ丘遊園・京王閣、と開業が続く。しかし、荒川遊園は規模が小さく、谷津・向ヶ丘は海浜や自然を利用した公園の色合いが強い。豊島園はウォーターシュートはあるものの基本的にはテニスコート、プール、卓球場などの、一大スポーツランドであり、いずれも遊具の充実は戦後である。多摩川園・京王閣は、大浴場が呼び物で家族連れが楽しめ、さらには当初から遊具も充実していた。とくに東急系の多摩川園は敷地も広く、花月園に次ぐ関東の現代遊園地であった。

 花月園は新橋の料亭「花月楼」亭主平岡廣高によってパリ郊外の児童遊園地を手本にし、子どもの健全な育成を目的に建設された。チルドレンズ・パークと名付けられた広場やテニスコート、グラウンドをもち、1916年(大正5)から「日本全国児童絵画展」を開催。少女歌劇団・活動写真館・ダンスホールを設立し、ホテルまでもった。起伏の大きな地形を利用して、ヒル・ウエイター(ケーブルカー)や大山すべり(50メートルの大すべり台)、つり橋などを設置した。また、豆汽車・サークリングなどの機械遊具も備えた。毎年新しい遊具や施設を導入し、3ヶ月単位でアトラクションを変えたという。拡大路線をひた走り、開園時2万5千坪であった敷地は、昭和初期には公称7万坪に達し、従業員は200人以上にふくれあがった。

 東京近郊で遊園地が建設されつつあるなか、園主平岡廣高は、『横浜貿易新報』1926年(大正15)4月18日の紙上で、「設備を大にすればするに連れて、借財は嵩み利息は殖え税金は増し地代は騰り」、花月園の事業展開が難しい状態にあり、一週間1回の来園を、と読者に訴えた。そこには、長期にわたる不況や、多摩川園などの開業が影をおとしていることは疑いない。しかし1931年(昭和6)、松屋浅草店が開業し、その屋上が機械遊具をもつ「スポーツランド」として整備されると、花やしきが寂れてしまったように、常に新しいものを求める入場客の移ろいやすい心理が、平岡を拡大路線に駆り立てたものと思われる。関東における現代遊園地の先駆者は、その経営の行き詰まりをも先駆的に経験したのであろう。この点乗客獲得策の一助として設立された電鉄系遊園地とは異なっていた。

 花月園は1933年(昭和8)、平岡の経営から、京浜電鉄・大日本麦酒を大株主とする経営に移行した。その翌年、子どもの健全な育成を花月園に託した平岡廣高は、73才の人生を終えた。

(平野正裕)


平岡廣高 『花月園弁天堂絵馬集』(1925年9月刊)より





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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