上の写真は、一面の中央に掲載されたもので、「創刊当時本社の所在地(現在の横浜本町83横浜活版舎)」と説明が書かれていますが、明治6年に建てられた横浜毎日新聞社の社屋です。二面に書かれた創刊当時の社員、相川尚清の話によれば、この建物は小さいながらも西洋館だったので、当時は目立つ存在だったそうです。中はどうだったかというと、野村によれば明治12年当時の編集室は日本間でしたが、体格の良い編集長兼主筆の杉村濬はテーブルと椅子を与えられていました。しかし、肥塚龍ほか2〜3名の社員は、机の前に座って原稿を書いていたそうです(野村は寺子屋式と表現しています)。当時の発行部数は800枚位でしたが、貿易品の数を記した附録がついていたため、生糸生産地の群馬県や長野県でも販売されたということです。
3月22日の二面には、創刊当時の印刷機の写真が載っています。相川によれば、当時は最も便利なものだったそうです。その後、この機械は転々と移動し、この時は横浜活版舎で使われていました。
また、明治8年に政府が政府官僚に対する批判を抑えるために讒謗律(ざんぼうりつ)を制定し、新聞の弾圧に乗り出すようになると、いくつかの新聞の編集長が讒謗律に触れ、処罰されました。『横浜毎日新聞』も処罰の対象になりましたが、その当時のことを回想した記事もあります。3月23日の二面には、当時編集長だった塚原靖が、禁獄10ヶ月、罰金百円の処罰を受け、自宅禁獄になったと書かれています。そのため、塚原は桜木町に眺めの良い家を借りて、鉄道の向こうに海を見晴らし、しかも絶えず新聞社に原稿を送っていたといいます。友人との面会も自由にでき、『朝野新聞』を主宰する成島柳北からの差し入れもあったそうです。
どれも30年以上昔を回想した文章ですが、横浜で新聞を発行していた当時の様子がうかがわれます。
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