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館報「開港のひろば」バックナンバー


新聞万華鏡(11)

草創期の横浜毎日新聞社


横浜毎日新聞社の社屋
画像


明治3年横浜で発行された日本で最初の日本語の日刊紙『横浜毎日新聞』は、明治12年に本拠地を東京に移して、紙名も『東京横浜毎日新聞』、『毎日新聞』、『東京毎日新聞』と変わっていきました。

 『東京毎日新聞』は、創刊40周年にあたる明治43年3月21日、22日、23日の3日間、40周年記念号(12502号から12504号まで)を発行しました。草創期の『横浜毎日新聞』について、刊行に携わった人びとの回想、社屋や印刷機の写真が掲載され、興味深い記事になっています。今回は、その中からいくつか紹介したいと思います。

 最初の21日の一面には、島田三郎の「過去の四十年」、野村本之助の「悪戦苦闘の歴史(上)」、肥塚龍の「追想往時感慨多」が載っています。

 創刊の事情に関して野村は、茂木惣兵衛、原善三郎、吉田幸兵衛、島田豊寛などの横浜の紳商が、陸奥宗光から欧米の新聞事情に関する話を聞き、かつ陸奥から新聞発行の勧奨を受けたので、有志紳商共同経営のもとに創刊したと述べています。

「開港のひろば」第79号
2003(平成15)年2月5日発行

企画展
「郷土を誌(しる)す
−近代横浜・神奈川の地誌−」
企画展
『吉田沿革史』と『吉田誌』
展示余話
旧家に残された資料から
−橘樹郡茶業組合について−

人物小誌
関東の大遊園地・花月園と平岡広廣高
資料よもやま話
港で働く人びと
−昭和8年(1933)の調査から−
資料館だより

 上の写真は、一面の中央に掲載されたもので、「創刊当時本社の所在地(現在の横浜本町83横浜活版舎)」と説明が書かれていますが、明治6年に建てられた横浜毎日新聞社の社屋です。二面に書かれた創刊当時の社員、相川尚清の話によれば、この建物は小さいながらも西洋館だったので、当時は目立つ存在だったそうです。中はどうだったかというと、野村によれば明治12年当時の編集室は日本間でしたが、体格の良い編集長兼主筆の杉村濬はテーブルと椅子を与えられていました。しかし、肥塚龍ほか2〜3名の社員は、机の前に座って原稿を書いていたそうです(野村は寺子屋式と表現しています)。当時の発行部数は800枚位でしたが、貿易品の数を記した附録がついていたため、生糸生産地の群馬県や長野県でも販売されたということです。

 3月22日の二面には、創刊当時の印刷機の写真が載っています。相川によれば、当時は最も便利なものだったそうです。その後、この機械は転々と移動し、この時は横浜活版舎で使われていました。

 また、明治8年に政府が政府官僚に対する批判を抑えるために讒謗律(ざんぼうりつ)を制定し、新聞の弾圧に乗り出すようになると、いくつかの新聞の編集長が讒謗律に触れ、処罰されました。『横浜毎日新聞』も処罰の対象になりましたが、その当時のことを回想した記事もあります。3月23日の二面には、当時編集長だった塚原靖が、禁獄10ヶ月、罰金百円の処罰を受け、自宅禁獄になったと書かれています。そのため、塚原は桜木町に眺めの良い家を借りて、鉄道の向こうに海を見晴らし、しかも絶えず新聞社に原稿を送っていたといいます。友人との面会も自由にでき、『朝野新聞』を主宰する成島柳北からの差し入れもあったそうです。

 どれも30年以上昔を回想した文章ですが、横浜で新聞を発行していた当時の様子がうかがわれます。

(上田由美)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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