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館報「開港のひろば」バックナンバー


港で働く人びと
−昭和8年(1933)の調査から−

 国際港都横浜は多くの人びとによって支えられてきたが、その一つに港湾労働者の存在がある。それにもかかわらず、古い時期については、その実態を示す体系的な資料が存在しない。ここでは、だいぶ時期が下るが、昭和8年の調査に基づき、翌年3月に横浜市社会課が刊行した報告書『横浜港仲仕労働事情調査』によって、その一端を紹介する。(報告書の原本は当館所蔵。横浜市立大学経済研究所『経済と貿易』93号〈1967年3月〉に「京浜工業地帯発達史資料4」として復刻されている。)

 なお、この報告書や当時の資料には、「人夫」など人権や平等の思想が発達した今日では不適切と思われる用語が見られるが、当時使われていた固有名詞や報告書の内容を紹介する表では用いたことをお断りしておく。

港湾労働の歴史

 幕末開港時、突貫工事で建設された横浜の港湾施設は貧弱なものだった。外国貿易用には小さな突堤が一つあるだけで、大型船が接岸することはできず、輸出入貨物の運搬には艀(はしけ)輸送が必要だった。開港当初、艀は運上所(現在の税関に当たる役所)が配船し、労働者は外国商社が自前で雇用したようである。

 大型の帆船が安定して航行するためには、船底に重量物(荷足)が必要である。横浜の代表的な輸出品である生糸は、価格に比して軽量であり、国際貿易商品には適しているが、他方で荷足を必要とした。そのために砂利や土砂の積込が行われるようになり、その納入業者である松影町の砂利勝こと安藤勝太郎、海岸通りの砂利善こと佐藤善蔵らが多数の労働者を擁し、荷足以外の貨物の運搬にも従事するようになった。これが請負業の始まりである。

 請負業者のうちには博徒が本業の者もおり、そうでなくとも業者と労働者の関係は、親分・子分関係に支配されていた。労働のあり方は親分の裁量に左右され、悪い親分に当たれば正当な報酬を得られないような場合もあった。そうした悪弊を是正するために、明治22年(1889)神奈川県令第28号「人足受負業并人足取締規則」が公布され、44年(1911)にはそれを改正した神奈川県令第66号「横浜港人夫請負営業及人夫取締規則」が公布されて、請負業者は横浜港人夫請負組合と横浜港沿岸人夫請負組合の二つの組合を組織し、横浜水上警察署の監督の下で組合規約を守り、事業の円滑な遂行を図ることになった。

「開港のひろば」第79号
2003(平成15)年2月5日発行

企画展
「郷土を誌(しる)す
−近代横浜・神奈川の地誌−」
企画展
『吉田沿革史』と『吉田誌』
展示余話
旧家に残された資料から
−橘樹郡茶業組合について−

人物小誌
関東の大遊園地・花月園と平岡広廣高
閲覧室から
新聞万華鏡(11)
資料館だより

 「事業の円滑な遂行」というと聞こえが良いが、組合加盟の業者がお互いの縄張を守りつつ仕事を独占し、世話役を通じて労働者を支配・統制する体制が整ったのである。組合の力で不当な賃金カット(いわゆる「ピンハネ」)や強制的な支配(いわゆる「タコ部屋」)などの不正行為が防止されるようになった点では、労働者の利益にもなった。

 貿易の発展とともに労働者数も漸次増大し、大正3年(1914)に始まる第一次大戦中の好況時には請負業者58名、労働者1万数千名を数えるに至った。戦後不況と12年の関東大震災の結果、減少を余儀なくされるが、震災復興期に1万人台を回復、昭和初期の世界的不況で再び減少し、昭和8年(1933)2月1日現在4,510名であった。





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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