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「開港のひろば」第147号
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展示余話
第二消防署の関東大震災
―建物被害と消火活動―
横浜公園
この時、横浜公園はすでに多くの避難者で溢れていたほか、神奈川県警察部や横浜市役所なども同所へ避難していた。その周囲は炎に囲まれる一方、破裂した水道管から水が噴き出し、公園内は泥水に浸かった。避難者が火と水に攻められるなか、公園に到着した署員たちは飲料水の確保や負傷者の救護にあたった。また、中村町や北方の分署に連絡員を派遣して情報の収集に努めた。
第二消防署管下の分署や出張所の被害も大きく、中村町分署、地蔵坂、谷戸坂、見晴の各出張所は倒潰、中村町分署配備の消防自動車は瓦礫に埋もれて使用不能になった。しかしながら、難を逃れた署員たちは救助隊を編成、消防署周辺で生き埋めになった人びとを救出したほか、中村町分署の署員は破壊消防を展開して中村橋付近の住宅を火災から守った。
一方、倒潰を免れた蒔田出張所は消防自動車を出場させて火災に挑んだが、消火栓が使えなかったので、破壊消防を行いながら転戦、最終的に中村町に到達する。そこで町内の池から水を得た消防自動車は同方面で消火活動を展開していった。ここに中村町分署の署員も合流、延焼を防ぐことに成功したのである。
管轄下の分署や出張所が奮闘するなか、本署の署員たちは北方分署の無事を知る。その結果、金子機関士は署員一同の移動を判断、危険を冒しながら北方方面にむかい、午後7時に奮闘する分署員と合流した。
北方分署の活動
地震発生直後、倒潰を免れた北方分署は他の分署や出張所と同様に、消防署周辺で被災者の救助活動を展開した。その後、本牧方面から火災が迫ってくると、消防自動車を出場させ、消火活動を展開していく。この時、消防自動車は千代崎川から水を得て放水を実施、一時退却しつつも、午後2時20分、林などの地形を利用しながら消火していった。
同じ頃、反対の千代崎町方面からも火災が迫ってきた。これに対し、北方分署は消防組の協力を得ながら対応したが、すでに千代崎川の水は本牧方面の消火活動で使い果たしていた。だが、北方町天沼に所在したキリンビール工場の貯蔵庫が破裂、下水溝から千代崎川に生ビールが流れ始めた。北方分署の消防自動車はそれを活用して鎮火に成功したのである。これによって北方方面の家屋は救われることになった。その後、本署員が合流した後は、北方分署が第二消防署の仮庁舎となる。
地震によって発生した火災は僅か1日で横浜の街を焼き払っていった。9月2日、消防を統轄する神奈川県警察部保安課は、残存する装備と人員を確認した上で、6日に防火体制の再編を行う。その結果、被害の少なかった地域を中心に、北方・蒔田方面に消防自動車各1台、磯子方面に東京から購入した消防自動車1台、根岸方面に腕用ポンプ2台を配して出火に備えることになった(保安課「震後横浜市の消防設備に就て」、『警友』第2巻第9号、1927年9月)。この後、震災復興の過程で横浜の防火体制は大きく変化していくことになる。
(吉田律人)