横浜開港資料館

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「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

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資料よもやま話
「関口日記」にみる生麦村の近代化

大日本帝国憲法発布と関口家

明治22(1889)年2月11日、明治天皇は「憲法発布の詔勅」を発し、この日に大日本帝国憲法が発布された。地域の名望家であった関口家は憲法発布に強い関心を寄せた。この日の日記には「大日本帝国憲法発布ニナル。各地此盛典ヲ祝セザルナシ」と記され、昭知は憲法発布を祝うために東京に向かい、午後1時30分に横浜駅を発車する汽車に乗った。東京では青山練兵場から皇居に向かう天皇を路上において奉迎し、その足で東京府京橋区(東京都中央区)にあった毎日新聞社に行き、立憲改進党の肥塚龍と面会した。日記には「改進党へ加盟ス」とあるから、昭知はこの日に立憲改進党の党員になったようである。

大日本帝国憲法発布式当日の東京
(横浜開港資料館蔵『風俗画報』第2号)浅草公園に建てられた記念碑(左)と日本橋の光景(右)。
大日本帝国憲法発布式当日の東京(横浜開港資料館蔵『風俗画報』第2号)浅草公園に建てられた記念碑(左)と日本橋の光景(右)。

翌日には郡役所から憲法発布を祝って80歳以上の高齢者に「養老賜金」が下付されることが通達され、昭知が村の代表として郡役所に赴いている。また、2月16日には関口家の菩提寺であった安養寺で憲法拝読会と懇親会が開催された。さらに、17日には東京浅草(東京都台東区)の鴎游館で立憲改進党の党員大会が開催され、昭知が出席している。その後も昭知は党員として活動し、明治23(1890)年の第1回衆議院議員選挙に際しては、4月20日に神奈川町(横浜市神奈川区)の成仏寺で立憲改進党の島田三郎を招いて演説会を開催し準備に奔走した。

地域の近代化が進む中で

このように明治10年代以降、関口家の暮らしは急激に近代化していったが、その後も関口家は一貫して地域の近代化に協力していった。たとえば、明治22(1889)年2月28日の日記には、関口家が発起人となって生麦小学校にオルガンを寄付したと記されている。当時、文部省は「唱歌集」を発行するなど小学校での音楽教育を進めていたが、関口家はそうした教育方針に協力したと思われる。また、関口家は地域の主産業であった農業の近代化についても関与し、明治18(1885)年5月28日の日記には、昭知が東京で開催されていた共進会に赴き、綿を出品していた鹿児島県の人から綿の実を譲り受け、関口家で試作したと記されている。ここで紹介した事例は「関口日記」のほんの一部分にすぎないが、先述したように大きな図書館では活字で「関口日記」を読むことができるので、興味のある方にはぜひ手にとって読んでいただきたいと思う。地域の歴史は名もない人びとの人生の積み重ねで作られているが、日記を読むことによって、横浜の歴史を築いてくれた先人たちの人生に少しでも触れていただければと思う。

(西川武臣)

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