横浜開港資料館

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「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

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資料よもやま話
「関口日記」にみる生麦村の近代化

実業家への転身を目指して

江戸時代の関口家は地主として活動するとともに近隣の人びとへ商業資金を貸し出す金融業を営んでいたが、明治10年代以降になると一族の人びとがさまざまな商売や製造業をおこなうようになった。たとえば、明治13(1880)年7月7日の日記には、昭知が米穀仲買商を開業することを橘樹郡長に願い出たことが記されている。また、これ以降の日記には、昭知が「南京米」(輸入米)を販売している記事が散見しているから、彼は中国やインドシナから輸入した米を扱いたいと考えていたようである。江戸時代の日本では必ずしも白米を食べることが一般的ではなく、雑穀を米に混ぜて食べる人や芋を常食にする人も多かった。しかし、明治10年代に入ると特に都市部で白米を食べる人が増加し始め、東海道沿いの町場でも米の需要が増加した。昭知が米穀仲買商を始めた背景にはこうした事情があったと思われ、関口家は横浜港での「南京米」の輸入増加に迅速に対応したと考えられる。

一方、関口家の3男の順之助も昭知と同時期に醤油製造という新たな商売を始めている。日記によれば、順之助は、明治16(1883)年5月10日に東京日本橋の「新醤油伝授所」へ出向き、醤油の製造について相談している。「新醤油」がいかなるものなのかは分からないが、11月11日には本宅の近くに竪4間、横3間の「醤油製造所」が造られている。さらに、明治17(1884)年1月13日には、順之助が江戸時代から醤油の産地として知られていた野田町(千葉県野田市)の「醤油製造所」の視察に赴いている。はたして新たな事業への進出が成功したのか、今後、検討を進める必要があるが、明治10年代を迎えて農民たちは実業家への道を歩み始めていたことになる。

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