横浜開港資料館

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「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

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展示余話
慶応四年、佐賀藩の横浜駐屯
『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』から

横浜駐屯の史料

慶応4年(1868)4月16日、横浜裁判所副総督鍋島直大(なおひろ)(肥前佐賀藩主)は佐賀藩兵に護られて横浜に到着。翌日同総督東久世通禧(みちとみ)も横浜に入った。鍋島直大とともに横浜に進駐した佐賀藩兵は約二ヶ月にわたって横浜に駐屯し、開港場周辺の治安維持にあたることになる。

企画展「戊辰の横浜 開港都市の明治元年」では、佐賀藩の横浜駐屯に関する記録を2点紹介した。ひとつは神奈川県立公文書館が所蔵する『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』(以下では『諸仕組達帳』と略す、図1)と題された史料で、佐賀藩の御側頭役所が作成したものである。横浜などの進軍先において藩士に出された通達事項が書きとどめられている。もう一点は佐賀県立図書館に寄託されている『横浜御出張日記』(公益財団法人鍋島報效会蔵)で、こちらはおもに藩主鍋島直大(図2)の動静を日々記録している。

図1 『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』
慶応4年(1868) 神奈川県立公文書館蔵
図1 『御上京横浜偖又野州御鎮撫 諸仕組并達帳』 慶応4年(1868) 神奈川県立公文書館蔵
図2 鍋島直大 明治10年代 当館蔵
図2 鍋島直大 明治10年代 当館蔵

後者は、神奈川台場進駐との関連から横浜でも紹介されており(西川武臣「神奈川台場よもやま話−残された記録を読む−」『開港のひろば』97号、2007年)、神奈川台場に関わる記述が、西川武臣・神奈川台場関係資料集編集委員会編『神奈川台場関係資料集』(1998年)に抜粋翻刻されている。

そこで本稿では、前者の『諸仕組達帳』におもに依りながら、神奈川台場進駐以外の事柄をとりあげ、佐賀藩の横浜駐屯の実態を検討してみたい(以下、典拠名のない引用は『諸仕組達帳』による)。

出張時の決まり

慶応4年1月21日、鍋島直大と藩兵は伊万里(佐賀県)を出航し、27日に大坂に到着、2月2日に京都に入った。前年11月に朝廷より発せられた京都警衛命令による上洛である。その後、3月20日に横浜裁判所が設置され、鍋島直大はその副総督に任命される。直大は30日に大坂を発して舟で伏見にいたり、そこから陸路横浜に向かった(宮田幸太郎『佐賀藩戊辰戦史』佐賀藩戊辰戦史刊行会、1976年)。

藩士にはこの出張について、「御供立中なるたけ簡易にこれなくて(は)相叶わず、ことに追々夏季にも相移り候付、不用の荷物等はそれぞれ荷拵え相整え、(中略)追々蒸気船便をもって御国許に差し廻され」と、供の人数を減らして荷物を簡略にまとめ、不要の荷物は蒸気船で国元(佐賀)に送ることが命じられた。江戸時代の伝統的な出陣では、非戦闘員の従者や武士の各種荷物などが加わる。西洋式の軍隊では不要となる無駄な運搬を藩では削ろうとしたのであろう。

4月16日、藤沢宿を出発した鍋島直大は保土ヶ谷宿で休息をとり、八ツ時(午後2時頃)、横浜に到着した(『横浜御出張日記』)。翌17日、藩士に「横浜御出張中仕組」として、横浜警備中に守るべきルールが発せられた。このなかには、「上下の礼節正しく(中略)無作法の儀これなきよう」「大酒・女遊び堅く禁止の事」「喧嘩口論無用の事」などといった一般的なルールのほか、「異人館へ猥に罷り出で申すまじき事」という条項がある。新政府・佐賀藩は、藩士が外国人とトラブルを起こすことをおそれていたようである。

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