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「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

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資料よもやま話
「関口日記」にみる生麦村の近代化

はじめに

「関口日記」の原本(横浜開港資料館蔵)
「関口日記」の原本(横浜開港資料館蔵)

「関口日記」は、現在の横浜市鶴見区生麦に住んでいた関口家の歴代の当主が宝暦12(1762)年から明治34(1901)年までの約140年間、ほとんど毎日のように書き続けた日記である。日記を書いたのは初代藤右衛門、2代目藤右衛門、3代目東作、4代目昭房、5代目昭知の5人で、毎日の金銭出納や天候、事件や風聞などを克明に記録し続けた。彼らは後世の人びとが日記を歴史資料として利用するとは考えてもいなかったであろうが、日記が残されたことによって我々は当時の人びとの暮らしぶりを知ることができるようになった。

明治末年から大正初年の生麦村(横浜開港資料館蔵)
明治末年から大正初年の生麦村(横浜開港資料館蔵)

日記の原本は横浜開港資料館が所蔵しているが、すべての日記が翻刻されているから、現在、大きな図書館では活字化されたものを読むことができる。また、横浜開港資料館では昭和61(1986)年に「関口日記」を題材にした特別展「名主日記が語る幕末」を開催し図録を発行した。さらに、平成10(1998)年には、横浜近世史研究会と共編で『日記が語る19世紀の横浜』(山川出版社発行)を刊行し、「関口日記」に関する論文をいくつか収録した。しかし、これらの研究は江戸時代から明治時代初年までの日記を分析したものが大部分であり、明治10年代以降の日記についてはほとんど触れられていなかった。そこで、ここではそうした日記の中から明治10年代以降の関口家の暮らしぶりが分かるような日記の記述を2、3紹介したいと思う。

十全病院とシモンズ医師

明治10年代に入ると「関口日記」に近代的な西洋の文物に関する記述が増えてくるが、そのひとつに西洋医学についての記述がある。たとえば、明治10(1877)年の日記には、5代目当主昭知の妻であったこまが病気となり、野毛山(横浜市西区)に開設された十全病院に通院していたことが記されている。十全病院は明治4(1871)年に、横浜の商人たちの寄付金によって設立された病院で、明治6(1873)年12月に、太田町(横浜市中区)から野毛山に移転した総合病院である。この病院では西洋医学による治療がおこなわれ、関口家ではこまを十全病院で治療させることを決めた。

こまが十全病院に通院し始めたのは8月4日からで、同日の日記には野毛病院(十全病院のこと)の「セメンス」の診察を受けたと記されている。「セメンス」とは、安政6(1859)年11月に横浜にやって来たアメリカ人医師のデュアン・シモンズのことと思われ、彼は横浜を代表する西洋人医師のひとりであった。こまの病気がなんであったのか日記から知ることはできないが、8月5日の日記にはシモンズがこまの容体について「余程重体」と伝え、当面の間、投薬を続けることになったとある。

興味深い点は、こまがシモンズの診察を受けるとともに、昭知が近くの村に住む祈祷者や寺の僧侶に妻の治療について相談していることで、相談を受けた矢向村(横浜市鶴見区)の良忠寺の僧侶は、シモンズよりも漢方医の治療を受けるべきと話している。その結果、こまは不老町(横浜市中区)に住む漢方医の診察を受けることになったが、同時に10月24日には再びシモンズの診察を受けている。こまは治療の甲斐なく翌年7月13日に死去するが、この時代は西洋医学が急速に普及していく中で、患者がどのような治療を受けるべきなのかを迷うような時代であったようである。

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