横浜開港資料館

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「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

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企画展
西南戦争の従軍記録
−一兵士の軍隊手帳から−

本年6月、横浜市港南区にお住まいの金子正人氏から横浜市歴史博物館に一冊の手帳が持ち込まれた。当館で内容を確認すると、手帳は明治初期の軍隊手帳で、持ち主は正人氏の曽祖父にあたる金子増五郎であった。軍人の身分や経歴を示す軍隊手帳は、昭和期を中心に数多く残っているものの、明治初期のものは珍しく、全国でも数えるほどしかない。特に増五郎の手帳で特徴的なのは、①徴兵制施行の翌年、すなわち1874(明治7)年から使用されている点と、②西南戦争への従軍記録がある点の二点である。今回はこの手帳を中心に、明治初年の兵士の姿を明らかにしたい。なお、1872年以後は太陽暦で表記する。

図1 金子増五郎の軍隊手帳 縦145mm×横85mm 和装
図1 金子増五郎の軍隊手帳 縦145mm×横85mm 和装

近代陸軍の整備

明治維新後、権力の中央集権化を進める政府にとって、諸藩が有する独自の軍事力(藩兵)は脅威であった。それに対抗するため、政府は直轄の軍事力を整備するとともに、藩体制の解体をめざしていく。しかしながら、財政難や諸藩の抵抗によって簡単には実現しなかった。

1871(明治4)年2月、政府は西郷隆盛の協力を得つつ、薩摩・長州・土佐の兵力から政府直轄の軍隊である御親兵(後の近衛兵)を編成、その力を背景として7月に廃藩置県を断行する。さらに地方の秩序を維持するため、全国の要所に鎮台・分営を配置し、旧藩の兵力を集めていった。現在の神奈川県域(武蔵・相模)は東京鎮台の直轄となり、東京鎮台の下には第1(新潟)、第2(上田)、第3(名古屋)の三つの分営が置かれた。

続いて1873年1月10日、徴兵令が布告され、士族以外の人びとにも兵役が課せられることになった。同日、陸軍省は「今般徴兵令被相定首トシテ東京鎮台管下ノ府県徴兵被仰出、来ル二月十五日ヨリ徴兵使発行候」とし、神奈川県に対して徴兵検査にむけた準備を求めた。橘樹郡生麦村の戸長を務めた関口家の日記には、2月14日に「今朝、第十三区村々徴兵御取集之儀ニ付、御呼出しニ相成、御役所へ出勤、先日中、御布告ニ相成候国中一般、当酉年二十才ニ相成候者、名前取調書上候積」と記されており、村々でも検査の準備が進んだ。その後、3月9日に検査を担当する徴兵使が横浜に到着、14日まで野毛山学校を徴兵署として第1回の検査が実施された(『神奈川県史料』第一巻、『横浜毎日新聞』1873年3月20)。

一方、東京鎮台は5月14日に歩兵第1連隊を編成、旧藩兵から構成される教導団の歩兵5番大隊をその第1大隊とし、徴兵で集めた神奈川県出身者などで新たに第2大隊を編成した。第1回の検査で招集された人びとは、6月までに第2大隊に入隊していった。

その後、翌74年2月に本町の生糸会社を徴兵署として第2回の検査が行われ、歩兵として67人が軍隊に入ることになった。このなかの一人が軍隊手帳の持ち主である金子増五郎であった。

図2 横浜桟橋の風景
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年4月14日付 当館蔵
図2 横浜桟橋の風景 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年4月14日付 当館蔵

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