横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

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企画展
西南戦争の従軍記録
−一兵士の軍隊手帳から−

金子増五郎の入隊

軍隊手帳のページを開くと、最初に「掟」と「誓文条々」、「給養物品武器取扱心得」が記されている。このうち掟は兵士のあり方を示したもので、第1条は「兵隊ハ第一皇威を発揮し国憲を堅固にし国家万民保護の為に被設置候義ニ付此兵員に加はる者ハ忠誠を本とし兵備の大趣意に背かす兵隊の名誉落さゝる様精々可心得事」と、兵士の役割が規定されている。以下、兵士の上下関係や統制、罰則などが定めらており、創設間もない近代陸軍の方針がわかる。

図3 兵士が休む横浜市街地
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年5月5日付 当館蔵
図3 兵士が休む横浜市街地 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年5月5日付 当館蔵

さて、軍隊手帳には、個人に関する情報が多く含まれており、出生地や生年月日、住所はもちろんのこと、職業や家族構成、氏神・宗門などの信仰、さらに身体や顔の特徴まで細かく記されている。これは戦死した場合の身元確認のために記されたものだろう。こうした一つ一つの記述から兵士としての金子増五郎の姿が浮び上がってくる。

黒船が浦賀沖に来航した1853(嘉永6)年、金子は武蔵国久良岐郡松本村(現・港南区)、農民・吉兵衛の次男として生まれる。1874(明治7)年、徴兵検査を受けた金子は、5月30日に歩兵科の生兵として東京鎮台・歩兵第1連隊第3大隊に入隊、第2中隊に配属される。この時、3個大隊から構成される連隊はまだ編成の途上にあり、第3大隊は明治7年度の徴兵によって新しく誕生した部隊であった。また、各部隊は第1大隊が愛宕下の旧松山藩邸に駐屯したのに対し、第2大隊と第3大隊は赤坂檜町に駐屯していた(防衛省防衛研究所所蔵『歩兵第一聯隊歴誌』)。

入隊後、金子はすぐに体調を崩してしまい、陸軍病院に入ることになった。その間、金子の所属する第3大隊は第2大隊とともに熊本鎮台に属すこととなり、金子は8月26日付で歩兵第1連隊第1大隊の第2中隊へ転属となる。その後、第3大隊は九州に移転するが、金子には東京での休養が求められたのだろう。なお、第2大隊と第3大隊は12月に東京鎮台の管轄に戻っている。

1875年3月12日、勤務に戻った金子は、各種訓練を通じて歩兵の基礎を学び、大隊長の検査を経て、同年6月15日に二等兵卒となった。一般的に生兵は半年の訓練によって二等兵卒となり、その後は警備等の任務に就くほか、大隊単位の演習に参加するようになる(1874年10月制定、生兵概則)。病気のため、金子の昇進は一年ほどかかったが、翌年の12月8日には一等兵卒に昇進している。この間、第1大隊は赤坂檜町に移転、金子の生活も愛宕下からそこへ移った。

こうした人事の記録だけでなく、軍隊手帳には、勤務状況についても記されている。金子は1875年10月13日から11月6日まで千葉県習志野で行われた歩兵第1連隊の野外演習に参加したほか、翌1876年4月には八王子方面での行軍演習にも参加している。ここから歩兵第1連隊が東京の周辺で演習を展開していたことがわかる。また、6月には、守衛番兵中にミスを犯してしまい、一週間の「使役」に従事したことも記録されている。

以上のように、軍隊手帳には様々な記録が含まれており、それを紐解くことで、徴兵で集められた横浜出身者の姿が明らかになる。この後、金子は三年間の兵役満期を迎える前に、戦地に赴くことになった。

図4 陸軍兵士の軍装
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年10月27日付 当館蔵
図4 陸軍兵士の軍装 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1877年10月27日付 当館蔵

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