横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第142号 > 企画展  西南戦争の従軍記録−一兵士の軍隊手帳から−〈3〉

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第142号
2018(平成30)年11月3日発行

表紙画像

企画展
西南戦争の従軍記録
−一兵士の軍隊手帳から−

西南戦争と歩兵第1連隊

1877(明治10)年2月12日、鹿児島に戻った西郷隆盛と対立する政府は、歩兵第1連隊に出動を命令、連隊長の長谷川好道中佐は第3大隊を率いて14日に横浜から神戸へむかった。以後、西郷が熊本鎮台(熊本城)を包囲するのと前後して、横浜港の軍事拠点化が進み、次々と兵力が送り出されていく。明治維新後、最後の士族反乱となる西南戦争の始まりであった。

金子増五郎が属する第1大隊(隊長・大島義昌)は3月10日に赤坂檜町を出発、横浜から神戸を経て、14日に博多に上陸する。軍隊手帳には、「明治十年三月十日東京出発、同月十四日肥後国高瀬表に於て出征第四旅団へ編入、同月二十日ヨリ同団田原二股役ヨリ戦闘、同年五月二日、第一旅団ヘ転入処々交戦」と記されている。先着の第3大隊は熊本鎮台救援のため、西郷軍と田原坂周辺で戦闘を繰り広げており、第1大隊もそれに加わっていった。

この戦いで金子は負傷、軍隊手帳に「十年三月二十四日滴水村攻撃ノ際負傷」とあるほか、東京鎮台歩兵第1連隊第1大隊第2中隊の「戦闘景況日誌」(防衛省防衛研究所所蔵)にも負傷者として「兵卒金子増五郎」の名前が確認できる。どれ程の傷だったか定かではないが、その後の戦闘にも参加していることから重くはなかったのだろう。

当初、西南戦争は西郷軍の優位に進んだが、政府が全国規模の軍事動員を行ったことで、次第に物量に押されていった。4月中旬、熊本鎮台の救援が成功すると、政府軍は鹿児島に後退する西郷軍を追撃していった。この間、4月20日に金子の兵役は満期を迎えたものの、そのまま従軍を続けた。9月24日、西南戦争は西郷の自刃によって終結、歩兵第1連隊は鹿児島から神戸を経て、陸路で東京に戻った。軍隊手帳にも「九月廿四日平定ニ付、同年十月廿八日凱旋」と記されている。

11月5日、金子は歩兵第1連隊を除隊、後備役として定期的に訓練を受けたものの、1882年8月以降の記述はなく、軍歴はそこで止まっている。その後、軍隊手帳は子孫を通じて大切に保管され、今日に伝わることになった。

(吉田律人)

≪ 前を読む

このページのトップへ戻る▲