横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第140号
2018(平成30)年4月27日発行

表紙画像

展示余話
綱島温泉の痕跡
−ラヂウム霊泉湧出記念碑−

ラジウム鉱泉の発見

石碑の裏面を確認すると、「発見者」は飯田助大夫、「発見所有者」は加藤順三と刻まれている。内務省の東京衛生試験所に検査を申請したのは加藤だったが、発見者は飯田助夫の父、助大夫快三であった。この点については、『横浜貿易新報』に掲載された連載記事「桃と桜と湯の町 綱島温泉を訪ふ記」(1933年4月14日〜15日)から背景の一端を窺い知ることができる。

1933年4月12日の日記を確認すると、飯田は横浜貿易新報社政治部長の矢田勝年記者を案内しながら桃雲台(綱島神明社の高台)や自宅、「水明楼」などを巡った。二日後に掲載された訪問記はその時のレポートで、「花によく、摘草によく、湯治も出来るこの一郷だ、栄えぬ筈はない」と、矢田は綱島温泉の感想を記している。

この過程で同記事は、「現在、樽町となってゐる綱島の加藤順三氏が此の分析出願をしたものであるが、飯田氏亡父助太夫氏〔快三〕が本県天水採氷組合長をしてゐる頃、県の多田技師(当時技手)が検査一官として出張した折も此井戸水にラジームを含んでゐたのであった」と、ラジウム鉱泉発見の経緯を説明している。つまり、以前、同じ井戸を神奈川県が調査した際も同様の結果が出ていたため、発見者は飯田助大夫になったのだろう。

助大夫が採氷組合の組合長をやっていた時期は判然としないが、明治末から大正初期の「職員録」を確認すると、県警察部の衛生技手として「多田亮」の名前が確認できる。ちなみに多田は1933年1月段階で警察部衛生課の衛生技師だった。

検査対象の井戸が掘られたのは1914年とされているので、神奈川県の検査も衛生試験所の検査と近い時期に行われたと考えられる。

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