横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第140号 展示余話  綱島温泉の痕跡−ラヂウム霊泉湧出記念碑−〈1〉

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第140号
2018(平成30)年4月27日発行

表紙画像

展示余話
綱島温泉の痕跡
−ラヂウム霊泉湧出記念碑−

港北区の綱島地域はかつて東京や横浜の「奥座敷」と呼ばれた温泉街であった。東急東横線綱島駅の西側と東側、そして鶴見川を越えた樽町には、温泉旅館が建ち並び、多くの人で賑わっていた。しかし、高度経済成長期以降、人々の娯楽が多様化するなか、温泉街は次第に衰退、旅館は商業施設と集合住宅を兼ねた高層建築物へと姿を変えていった。綱島は京浜の奥座敷からベッドタウンへと変貌していったのである。

だが、綱島駅の周辺には、温泉旅館に使用していた建物が残っているほか、高層建築物にも温泉旅館の名前を継承したものが存在する。また、大綱橋の南側、綱島街道の三叉路には、1933(昭和8)年3月に建立された「ラヂウム霊泉湧出記念碑」があり、かつてそこに温泉があったことを示している。

図1 ラヂウム霊泉湧出記念碑 2017(平成29)年11月撮影
図1 ラヂウム霊泉湧出記念碑 2017(平成29)年11月撮影

この石碑については、大倉精神文化研究所の平井誠二氏が『わがまち港北』(2009年)に詳しくまとめているが、企画展示「銭湯と横浜」を準備する過程で新たな事実がいくつかわかった。本稿では、それらについて紹介していきたい。

石碑建立の経緯

従来、ラヂウム霊泉湧出記念碑については、①建設者が加藤順三(菓子商「杵屋」主人)であること、②1914(大正3)年に加藤家の井戸水(鉱泉)の検査が衛生試験所で行われ、ラジウム鉱泉の発見に繋がったこと、③加藤など綱島温泉の関係者等が判明していた(詳細は平井氏の研究を参照)。しかし、石碑に刻まれた文字以上の情報はなく、建立の経緯などは不明であった。そうしたなか、今回、綱島地域の有力者である飯田助夫(元大綱村村長・横浜市会議員)の日記(飯田助知氏所蔵。以下「日記」)から空白の部分を明らかにすることができた。

最初に日記から石碑の計画が持ち上がった時期を確認すると、1932(昭和7)年12月19日に「午後二時市役所武井〔佳太郎−引用者注、以下同じ〕秘書課長よりラジューム記念碑建設に付、大西〔一郎〕市長揮毫に付問い合わせあり。差支なき旨回答す」と記されている。おそらく建立の発案者は加藤とその周辺の人物だったと考えられるが、この段階で横浜市も建立にむけて動いていたことがわかる。

続いて翌33年1月5日の日記には、「杵や順三氏に面会、潮田福沢〔徳太郎〕君の肝入りにて温泉湧出発見記念碑、大西横浜市長の揮毫にて近日建碑に付、俳句を希望せらるるも市長の題字に添ゆることは遠慮すべきことを申述諒解を得たり」と、石碑の建立場所である杵屋との打ち合わせが記されているほか、「ラジューム温泉発見記念碑の建立は近来之が為めに開発せられてある綱島一帯の繁栄と相俟って時機に適したる挙と云ふべし」と、石碑に対する飯田の考えも確認できる。

ここで登場する福澤徳太郎は、鶴見区佃野町の銭湯「大綱温泉」を営む人物で、前号で紹介した『浴場評論』の発行者でもあった。『浴場評論』第1号(1935年1月発行)に依れば、福澤は綱島温泉の汲湯を船で運んで営業を行ったほか、同誌に自著の「収入源の積極方策」や「故埴原元駐米大使を偲ぶ」を掲載するなど、積極的な言論活動を展開していた。加えて、福澤は県会議員の高橋長治(民政党)や中助松(政友会)を浴場組合の顧問に招くなど、政界とのパイプもうかがえる。

こうした活動から福澤がメディア関係の仕事をしていた人物だったことが推察できる。実際、明治末から大正初期の横浜貿易新報社には、営業部に「福澤徳太郎」の名前が確認できる(各年度の『横浜貿易新報』元旦号)。福澤は新聞社時代に築いた人脈を使いながら石碑の建立にむけて動いたのだろう。

その後、日記には、二ヶ月ほど石碑に関する記述はないが、4月2日と9日に関連する記述があり、飯田は福澤などと打ち合わせを行っている。そして4月10日の桃花祭に石碑の除幕式が行われ、一般に披露されることになった。飯田は日記に「午後五時加藤順三君のラジウム霊泉湧出記念碑除幕式に参列す、市より武井秘書課長、笠原区長参列内祝ひあり」と記しており、終了後は「永命館」で慰労会が催された。

以上のように、ラヂウム霊泉湧出記念碑の建立については、綱島温泉の関係者だけでなく、地元の有力者や鶴見の汲湯関係者、横浜市役所なども動いていたのである。

続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲