横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第140号
2018(平成30)年4月27日発行

表紙画像

企画展
長崎で撮影された
William Gamble の写真 発見!

ウィリアム・ギャンブル(William Gamble 1830〜1886年)は、1869年11月末から1870年4月上旬までの約4ヶ月間長崎に滞在し、日本に活版印刷術と金属活字の鋳造術を伝えた人物である。本誌138号でも紹介した人物であるが、このたび長崎に滞在していた時期に撮影されたと思われる写真が、米国議会図書館(Library of Congress、以下LC)のギャンブル・コレクションに収蔵されていることを確認したので、ここで紹介したい。

ギャンブルは、アイルランドで生まれ、家族とともに米国に移住し、1858年、北米長老教会(American Presbyterian Mission)が中国の寧波(ニンポー)に設けた印刷所に、同教会伝道本部より印刷技師として派遣された。その後印刷所が上海に移設されると、ギャンブルも上海に移り、美華書館(みかしょかん)と称した印刷所の所長を務めた。1869年10月に所長の職を辞したギャンブルは、長崎製鉄所活版印刷局の本木昌造(もとぎ しょうぞう)の求めに応じ、活版印刷術と活字鋳造術を伝授するため長崎へ赴き、同年11月末から約4ヶ月間長崎に滞在した。講習を終えたギャンブルは、1870年4月2日(明治3年3月2日)、いったん上海へ向け長崎を発っている。その後同年7月30日(明治3年7月3日)、再び上海を離れ、長崎・兵庫を経由し横浜に上陸し、同年8月頃、横浜から米国に向けて旅だった。以後中国に戻ることはなく、ペンシルベニア州のヨークで56歳の生涯を閉じている。

ギャンブルが長崎で伝えた活版印刷術と活字鋳造術は、本木の弟子たちにより、明治3(1870)年には大阪・京都・東京・横浜へと伝えられた。横浜でも、明治3年、神奈川県令井関盛艮(いせき もりとめ)が邦文新聞の発行を主唱し創設した横浜活版社に、本木の部下である陽其二が呼ばれ、早速横浜毎日新聞を刊行した。その後陽其二が横浜活版社で印刷した書籍や刷り物には、ギャンブルが長崎で伝えたと思われる美華書館由来の活字が多数用いられている。横浜の印刷史にとっても、ギャンブルは忘れることのできない人物である。

なおギャンブルは、帰国に際して印刷技師として中国で働いていた約12年間の様々な資料を米国に持ち帰ったが、それらの資料は、遺族からLCに寄贈された。それらは、ギャンブル・コレクションと名付けられ、LCアジア部の貴重資料として保管されている(註(1))。

  • 註(1)LC所蔵のギャンブル・コレクションの所在は以前より知られており、同コレクションをもとに、ギャンブルに関する研究が進められてきた(後藤吉郎・森啓・横溝健志「William Gamble の生涯:アメリカ議会図書館におけるW. Gamble Collection の調査」『日本デザイン学会研究発表会大会概要集』2008年等)。しかし近年同コレクションは、コレクションに含まれていなかったギャンブル関係資料も含めて再整理され公開されている。

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