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「開港のひろば」第140号
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企画展
金属活字と明治の横浜
小宮山博史コレクションを中心に
活字離れが言われて久しいですが、本や新聞をあまり読まない人も、パソコンやスマートフォンでデジタルフォントを使い通信をし、配信される様々な情報を入手しています。明治初頭、日本に伝わった金属活字は、活版印刷術とともに、その後約100年間日本の印刷を支えました。1980年代になり写植、なかでも電算写植システムの普及により活版印刷は衰退しますが、写植もデスクトップパブリシング(DTP)の普及で、ほとんど使われなくなりました。今やデジタルフォントの時代ですが、本展示では、約150年前、長崎に伝わった金属活字を取りあげます。
日本に伝わった漢字活字は、明朝体と呼ばれる書体の活字でした。そのため、漢字活字も中国で、誕生したと考えがちです。しかし漢字活字は、19世紀のヨーロッパで誕生しました。19世紀になると、東洋への関心は東洋学へと発展しました。また欧米のキリスト教団体は海外への宣教活動を始めます。特に宣教に力を入れたのが中国でした。プロテスタント宣教には聖書が欠かせず、現地の言葉に翻訳した聖書を印刷し、配布するのが宣教師たちの仕事の1つでした。中国、なかでも上海には、欧米で作られた様々な活字が集められ、また印刷技師たちが活字を作り、活字の鋳造術と印刷術は洗練されていきました。
明治2(1869)年、上海から長崎に伝えられた活字鋳造術と活版印刷術は、その翌年、早くも横浜に伝えられ、その年の年末には活版印刷により日本最初の日刊日本語新聞が刊行されました。従来行なわれていた1枚板を彫って版を作る整版から活版印刷へと、印刷技術も変化していきます。整版に比べ数多くの文字を1枚の紙に印刷でき、より多くの部数を印刷することが可能な活版印刷の登場により、情報量は拡大し、日本の近代化は加速されました。
本展示は、活字書体史研究家、小宮山博史(こみやま ひろし)氏のコレクションを中心に、日本近代化の原動力の1つであった金属活字について、誕生から日本への伝播、そして横浜における普及の歴史を明らかにします。
(石崎康子)