横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第138号
2017(平成29)年10月25日発行

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資料よもやま話
新聞の出入港船リストから分かること
〜ウィリアム・ギャンブルの場合〜

1869年、ギャンブルは美華書館を辞任する。辞任後ギャンブルは、長崎の元阿蘭陀通詞で製鉄所頭取を務める本木昌造の招聘を受け、日本に4ヶ月間滞在し、本木らに印刷と活字鋳造の技術を教えた。技術を習得した本木昌造とその配下からは、後に東京で築地活版製造所を始める平野富二や、横浜で横浜活版社を創設し、『横浜毎日新聞』を刊行した陽其二(ようそのじ)らが輩出された。

従来、ギャンブルの来日については、『教会新報』の記事などの資料をもとに、明治2(1869)年11月に来日し、翌年の4月頃に上海へ戻ったことは知られていたが、具体的な月日まではわからなかった。今回ギャンブルの来日と上海への帰還、米国への帰国について、新聞の出入港船リストにあたってみたところ、新しい事実が判明したので、紹介したい。

なお出入港船リストとは、英字新聞に"Shipping Intelligence"などと記される記事で、そのなかの‘Arrivals’に入港船名、‘Departures’に出航船名、‘Passengers’に上級の船室に乗船した船客名が記されている場合が多い。しかし新聞によって記載は様々で、出入港船がともに掲載される場合もあるが、どちらかしか掲載されない場合や、掲載されない号もある。

「ノース・チャイナ・ヘラルド紙」(The North China Herald、以下NCH)は上海で刊行された週刊新聞で、当館ではマイクロ・フィルムで収集し、欠号はあるものの、1850年8月3日より1900年12月26日までを複製で公開している。NCHの1869年10月前後の出入港船リストを見てみたが、ギャンブルの名を見つけることは出来なかった。残念ながらギャンブルがいつ、どの船で上海から来日したのかは、不明である。

一方ギャンブルは4ヶ月間の招聘を終え、4月頃に上海へ戻ったといわれている。NCH、1870年4月12日号の出入港船リストに、ギャンブルの名が記されており(「Passengers. Arrived.-Per "Cadiz" From Japan-Messrs. Gamble, and Dalziel.」)、キャディス号(Cadiz)で上海に着いていることがわかる。前述したようにNCHは週刊の新聞で、前の号は4月5日に刊行されているので、ギャンブルは5日から12日までの間に上海に着いていることがわかる。『日本初期新聞全集』所収の「長崎エクスプレス紙」(The Nagasaki Express)の1870年4月2日号の入港船名簿 (Arrivals)には、「April 1st, Cadiz, Duudas, P. & O. Str., 861, from Yokohama and Hiogo, March 27th, General, to Glover & Co.」とあり、出港船名簿 (Depertures)には「April 2nd, Cadiz, Duudas, P. & O. Str., 861, for Shanghai, General, by Glover & Co.」とある。このことから、キャディス号は横浜、神戸を経て4月1日長崎港に入港し、同2日、上海に向けて出港しており、ギャンブルは4月2日に上海へ向けて長崎を出港したことになる。NCHの4月12日号には、キャディス号の入港日は記されていないが、当時長崎から上海までは3日ないし4日を要しており(註(2))、ギャンブルは4月5日か6日には上海に戻ったものと思われる。

以上からギャンブルは、日本からの招聘を受け長崎に滞在し、招聘が終了すると、4月2日に長崎を出港し、上海に戻った事が判明した。

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