横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第138号
2017(平成29)年10月25日発行

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ミニ展示
横浜のブドウ園

明治時代から昭和戦後にかけて、横浜にもワイナリーがあった。特に知られていたのは、中垣秀雄が経営する帷子葡萄園である。名前のとおり保土ケ谷町帷子(かたびら)にあり、岡野公園(常盤園)の地続で、近くにゴルフ場もある広大で緑豊かな土地だった。

当館の所蔵する帷子葡萄園の広告には、保土ケ谷駅より1キロ半あまりの距離で、3、40分の散歩に適している。婦人子供同伴の場合は、横浜駅前より30分毎に発車する厚木及び川井行きの乗合自動車で「岡野公園下」停留所で下車、と書かれている。帷子葡萄園では現在の観光ブドウ園のように、ブドウ棚の下に休憩所を備え、ワインや、ブドウの果実、ブドウジャムパン、サンドウィッチなどを楽しむことができた。

図 帷子葡萄園の広告(横浜開港資料館所蔵)
図 帷子葡萄園の広告(横浜開港資料館所蔵)

1920(大正9)年8月発行の『大横浜』17巻8号に、「帷子葡萄園と皇国葡萄酒」という記事が掲載されている。当時は、毎年ブドウ収穫期の8月中旬から9月下旬にかけて、京浜間の「清遊士女」をひきつける一大別天地で、ワインはその頃市場に出回った「化学葡萄酒とは比較にならん」、ブドウは「甲州葡萄よりもおいしい」と評判だった。

『保土ケ谷区史』(1997年)によれば、中垣は、小田原に生まれた。高座郡羽鳥村(現在、藤沢市)の耕余塾で学び、神奈川師範学校を卒業した。その後老松小学校の訓導になり、続いて横浜の山手にあったビクトリア学校嘱託として、日本語を教えながら英語を学んだ。

ワイン醸造のきっかけは、富士登山の際に同行した帝国大学の教授たちからワインの有用性を聞いたことであった。中垣は、1889(明治22)年25歳で渡米し、カリフォルニア州上院議員のジョン・ベアードが所有する醸造場で、五年間働きながらワインの製法を学んだ。1894年には帰国し、苦労の末1902年保土ケ谷に皇国葡萄酒の醸造所と帷子葡萄園を開設した。

広告には、皇国葡萄酒の特長として、園主自身が海外で研究した技術を持ち、所有するブドウ園の品質優良なブドウで理想的なワインを醸造し、直接消費者に供給することをあげた。当時は、漢方薬や蜂蜜などを輸入ワインに添加した甘いワインが好まれていたが、中垣は生産した純粋なワインにより舶来品を駆逐し、人工葡萄酒を絶滅させると書いている。栽培していた20余りの品種のうち、「アジロンダック」が最も赤ワインに適していたという。

醸造販売品には、「皇国赤葡萄酒」、同白葡萄酒、「皇国ポートワイン」、「皇国葡萄汁」、「皇国規那鉄葡萄酒」などが紹介されており、いずれも薬用や滋養の効能をうたっている。1922年に上野公園で開催された平和記念東京博覧会では、「皇国印ポートワイン」で銀牌を受賞した。

1934(昭和9)年に、ブドウ園は醸造場を残して小田急相模原に移転した。醸造所は戦災に遭い、戦後復活するが昭和20年代末頃には失われた。

11月1日から30日まで、ミニ展示コーナーで、ブドウ園とワイン関係の資料を展示する。

(上田由美)

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