横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第138号
2017(平成29)年10月25日発行

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企画展
開港場横浜の原風景
―350年の歴史を探る―

図版 安政6(1859)年 貞秀 神奈川港御貿易場御開地御役屋敷并町々寺院社地ニ至ル迄明細大絵図にあらわす 当館蔵
図版 安政6(1859)年 貞秀 神奈川港御貿易場御開地御役屋敷并町々寺院社地ニ至ル迄明細大絵図にあらわす 当館蔵

近代都市横浜の直接的な起点は安政6年(1859)の横浜開港になります。横浜が開港場として選択された要因は国際・国内関係を含めさまざまな理由が考えられますが、江戸周辺に位置し当時の主要幹線である東海道からやや離れた地点に位置するという横浜の地域性と地理的な条件をふまえると、少なくとも次のような三点が地域史的視点からの前提として想定されます。

第一点は、開港場そのものの建設が可能であったことです。17世紀前半、現在の大岡川・中村川・JR根岸線に囲まれた地域全体と関内の南側半分は陸地ではなく、現在の元町付近から北へと伸びる砂州によって東京湾と隔てられた入海でした。この入海が吉田新田・横浜新田・太田屋新田という一連の新田開発によって陸地(干拓)化されたことが、横浜開港とその後における都市域の拡大を可能にしています。

第二点は、開港場と江戸とを結ぶ陸路が設定可能であったことです。横浜港の立地と繁栄は、政治的中心地である江戸(東京)との関係を前提にしており、江戸(東京)と横浜を結ぶ陸路の存在は必須のものでした。開港当初においてこの役割を担ったのが東海道から分岐する横浜道です。横浜道は、芝生村の浅間神社下付近で東海道と分かれ、新田間川・帷子川・石崎川を越え戸部村へいたり、野毛の切通し・吉田橋を経て開港場にいたります。横浜道が三本の川を越える地点は、現在の相鉄線天王町駅付近まで入り込んでいた帷子川河口部の入江であり、18世紀後半以降におけるこの入江を対象とした新田開発の進展が横浜道の開設の前提となります。

第三点は、横浜開港にあたり開港場を直接支える一定の経済圏が存在していたことです。当初、開港場として想定されていた神奈川の地は、東海道の神奈川宿であるとともに、東京湾西岸の有力な湊であった神奈川湊の所在地でした。廻船の停泊地は台町の下、現在の横浜駅付近であり、神奈川湊で揚げ降ろしされる物資は、神奈川宿・芝生村・保土ヶ谷宿から広がる陸路と鶴見川・帷子川という河川による水路を通じて内陸部の村々、さらには八王子との間で交易が行われていました。神奈川湊に沿った神奈川湊ベルト地帯ともいうべき神奈川宿(神奈川町と青木町の2か町)・芝生村・保土ヶ谷宿(保土ヶ谷町・神戸町・帷子町・岩間町の4か町)の人口は合計1万人弱であり、5・6万〜10万人弱と想定される当時の市域でも最大の人口密集地帯を形成していました。

(斉藤 司)

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