横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第138号
2017(平成29)年10月25日発行

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展示余話
ヘボン書簡に見る横浜の西洋人社会

宣教師と商人との確執

ヘボンの来日から25年後の1884年10月、東京・横浜在住の宣教師仲間やアメリカ公使、友人たち約150名がヘボン夫妻のために祝賀会を開いた。これを伝える同年11月1日付スレーター宛て書簡の後書きで、ヘボンは宣教師と商人たちとの間の確執に触れた。

外国の商人や船長たちが集まっているこれらの国々での宣教師たちは、悪く言われているものです。その理由は明白です。彼らはその罪と悪しき行動に対して多くは叱責に値すべきです。横浜に住んでいる…あらゆる外国商人たちの中に、ただ一人立派なキリスト信者がいます。キリスト教伝道に関心をもっているイギリス人です。これらの外国商人の中にも、教養もあり、非の打ちどころのない生活をしている高い道徳的人格の紳士たちも多くいます。…わたしどもも親しく交際しています。といっても、わたしどもの働きには何ら同情をしません。わたしの息子夫妻だってその点は同じです(『高谷』)。

アジアの開港場ではこのような確執が見られ、横浜も例外ではなかったという。アメリカ人、エリザ・シドモアE. Scidmoreも旅行記で触れている。

彼女はワシントンのポトマック河畔にある見事な桜並木の生みの親のひとりとして知られている紀行作家だ。1884年頃、在横浜米国総領事館員の兄、ジョージ(後に横浜総領事に昇格)を訪ねてきたのが初来日という。それ以降、しばしば来日、滞在し、91年にそれまでの体験を旅行記『日本・人力車旅情』Jinrikisha days in Japanにまとめ、ニューヨークで出版した。この本の中で次のようにこの問題を取り上げている。

横浜などの開港場で繰り広げられる社交生活は、イギリス、ヨーロッパ大陸、東洋のそれぞれの習慣が融け合っていて楽しい。…居留地の外国人社会は小規模である。…小社会は、どうしても派閥やグループに分かれ、互いに抗争相手となり、ちっぽけな目的へと、さらに狭くなってしまう。…宣教師は、横浜と東京に何百人と住んでいるが、…一般居留者ともっと付き合うなら、双方とも得るところが多いであろうと思われる。だが、この二つの外国人集団が接触することはまずない(恩地光夫訳『日本・人力車旅情』有隣新書、1986年)。

このシドモアの考えに対するヘボンの感想を知りたいところだが、ヘボンが読んだという記録はない。 なお、ヘボンの「わたしの息子」とは、次男サムエルのことである。他の子どもたちは幼い頃に病死し、彼だけが成人した。ヘボン来日時、15歳だったサムエルはアメリカの知人に預けられたが、20歳の頃(1864年)、横浜の両親の元へやって来た。ヘボンは最初の頃は、息子が宣教師となることを望んでいたが、サムエルはやがて日本郵船やスタンダード石油に勤め、横浜の外国人社会では野球やボートなど、スポーツ好きで知られた。父親のヘボンに言わせれば、信仰心の薄い商人の仲間となってしまったわけである。サムエルは隠退後、帰国し、アメリカで晩年を送った。

当館閲覧室では、ここで紹介した「ヘボン書簡」(資料番号Ca4-04.6)と、報告書を収めた「アメリカ長老派教会資料Records of U.S. Presbyterian Missions」(同Ca4-03.1)の原文を複製本で一般閲覧公開している。利用されたい。

(中武香奈美)

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