横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第138号
2017(平成29)年10月25日発行

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展示余話
ヘボン書簡に見る横浜の西洋人社会

ヘボンと初代英公使オールコック

開港初期、強硬な対日外交政策をとったイギリスの外交官、オールコックR. Alcockにヘボンが初めて言及したのは、61年3月の弟宛て私信においてだったが、特段、内容はない。次が、63年11月27日付の伝道協会本部宛て報告書であった。薩英戦争後に横浜で行われた薩摩藩とイギリスの和平交渉が決着したらしい、と伝える中で、「ぜひオルコック氏の書物を読んでください。日本に関する最も良い書物ですから」(『岡部』62)と薦めている。この「書物」とは、ロンドンで出版されたばかりの『大君の都』The capital of the Tycoonである。

図2 オールコック
A. Michie, The Englishman in China, 1900から 当館蔵
図2 オールコック A. Michie, “The Englishman in China,” 1900から 当館蔵

翌64年の2月10日付報告書では、施療所の患者数が減ったので、月40ドル、年間480ドルでイギリス連隊に病院として貸すことにした、契約期間は当初1年間、その後は月毎の契約で、とある(『岡部』63)。この施療所とは39番地のヘボン邸敷地の一角に設けられたもので、イギリス駐屯軍にアメリカ宣教施設の一部が賃貸しされたということになる。当時、オールコックは賜暇休暇で帰国中であり、直接の交流はまだなかったが、ヘボンはイギリスと良好な関係を持ち始めていた。

64年3月、賜暇休暇から戻ったオールコック夫妻との交流が始まった。クララはスレーターの妻アンナ宛て同年4月4日付書簡に次のように書いた。「オールコック夫人からは先週百十一種類の種をいただきました。みんな蒔きました。…同夫妻の到着後わたしどもはすぐに訪問いたしまして、先方でもすぐ当方を訪ねてくださり、親しくおつき合いをしております」(『高谷』)。オールコック夫妻の住む20番地の英公使館は通りを隔ててヘボン邸の向かいにあり(図3)、夫人たちは共通の趣味である園芸を通じて親しい隣同士となった。クララはまたこの頃、アメリカのオランダ改革派ではなく、その信条を気に入っている訳ではないがイギリス聖公会の礼拝に出席していた(『岡部』66)。同年11月15日付報告書でクララは、夫ヘボンが「良き友人、オルコック卿の好意により、長崎経由の上海行きのただの乗船券をいただきましたが、上海の暑さを理由に、せっかくの機会なのに行かずじまいにしてしまいました」(『岡部』73)とも書いた。

図3 ヘボン邸とイギリス公使館 ベアト撮影 1864年 当館蔵
右端がイギリス公使館、通りをはさんで左角がヘボン邸
図3 ヘボン邸とイギリス公使館 ベアト撮影 1864年 当館蔵 右端がイギリス公使館、通りをはさんで左角がヘボン邸

そのオールコックが同年9月、四カ国連合艦隊の下関遠征・砲撃を決行したため本国へ召還され、12月に離日した。翌65年1月の報告書で、ヘボンはオールコックを擁護した。

先回お便りをした後に、イギリス公使のオルコック卿が国の政府から更迭されて帰国しました。政府は、彼があまりにも性急にこの国と戦争に突入してしまうことを恐れておりました。しかし当地では誰もが彼の取った行動を認めており、現在までのところ最善の結果をもたらしております。下関の戦いは彼の取った手段のうちで最も強力なものでした。…それ以来わたしどもがこの国から追放されるということは聞かなくなりました。それはわたしどもにこの国における確固とした不変の立場を与えてくれました。それ以来、商業は大変満足のいくように伸びています(『岡部』76)。

ヘボンは、来日の目的であるキリスト教布教を妨げている大きな要因が攘夷派の存在であり、この状況を打破するためオールコックのとった強行策は正しかったと支持したのである。居留外国人たちの大多数もオールコックを支持した。イギリス本省も間もなく、下関遠征を承認し、翌65年3月、オールコックは駐清公使に栄転した。

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