横浜開港資料館

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「開港のひろば」第138号
2017(平成29)年10月25日発行

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企画展
「350年前の横浜村と洲乾湊」

次に図4は、砂州の中央部である。現在、横浜開港資料館や神奈川県庁が立地する周辺一帯であろう。ここでは畦道で区画された10枚程の耕地が描かれている。一部には刈り取った跡の稲の切り株らしき描写があるので水田であろうか。仮に水田とすれば、雨水に依拠した天水田ということになり、先述した図3の「古田」と比較すれば生産性は低く安定的ではない。

図4 開発前図(砂州)
図4 開発前図(砂州)

開発前図において、こうした耕地の区画が描かれている場所は他に無く、何らかの意味があると思われる。

図5は、砂州の先端で横浜村の鎮守である弁天社とそれを取り囲む境内地の木々が描かれている。ただし、鳥居は描かれていない。描写の対象から省略された可能性もあるが、存在しなかったと考えるべきであろう。この弁天社の祠と叢林は、東京湾を航行する、あるいは東京湾から州乾湊である入海へ入る船にとってのランドマークであったと考えられる。

図5 開発前図(弁天社)
図5 開発前図(弁天社)

図6は、「宗閑嶋」の沖合であり、対岸の野毛との間に穴があいた岩礁=「穴嶋」が存在する。岩の真ん中に穴が存在しており、それが名前の由来であろう。あるいは弁天社の本来の信仰形態は、江ノ島の洞窟と同様に、野毛方面よりこの穴を通して弁天社を遥拝するものであったのかもしれない。天保5年(1834)に刊行された「江戸名所図会」の挿絵「芒村姥島」では、この穴は崩壊して大小二つの岩礁に分かれ、名称も「姥島」と変化している。「穴」の文字が「ウ」+「ハ」に分割・転訛されたのであろう。おそらく穴の形態が崩落して海上からの遙拝の形式が消滅して以降、砂州側に鳥居が建立されたものと思われる。

図6 開発前図(穴嶋)
図6 開発前図(穴嶋)

(斉藤 司)

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