横浜開港資料館

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「開港のひろば」第138号
2017(平成29)年10月25日発行

表紙画像

企画展
「350年前の横浜村と洲乾湊」

次に「洲乾湊」については、19世紀前半に幕府が編纂した地誌である『新編武蔵風土記稿』に「村ノ西北ナリ、東西十二丁、南北四丁余ノ入江ニテ、当村及戸部村・吉田新田等ニカヽレリ、古ハイト広キ所ニテ、船カヽリヨカリシカ、次第ニ干潟トナリシニヨリ、若干ノ田地トナレリ」とあり、横浜村・戸部村(野毛)・吉田新田に囲まれた、東西12町・南北4町の入江とされている。東西は横浜村の砂州の長さ、南北は砂州から吉田新田までの距離であろう。「古ハイト広キ所ニテ、船カヽリヨカリシ」というように本来は吉田新田の範囲を含めた入海全体が湊であったと思われる。かつての大岡川の河口に近い蒔田の地に戦国時代における吉良氏の拠点である蒔田城が立地しているのも、こうした水運の便を考慮したものであろう。

湊の所在地は、通常、停泊の便宜のため、風除けが可能であるような地形に立地される。具体的には停泊が可能な適度な水深と、停泊時に風の影響を受けづらい、周囲を丘陵や小山に囲まれた地形である。洲乾湊の場合、入海それ自体は、東側の野毛と西側の山手の丘陵に挟まれた大きな谷戸ともいえる場所に立地する。しかし、北側の「宗閑嶋」の砂州が、現在のように平坦地であるとすれば、立地としては必ずしも良くないことになる。おそらく「宗閑嶋」という地名から窺われるように、島状の小高い箇所があり、それが北に対する風除けとして機能していたと想像される。

以下、図2をより細分化した図版をもとに、17世紀半ば頃における横浜村の状況をみていく。

図3は、現在の元町から山手にいたる部分である。ここには「横浜」と記された文字の近くに13〜14軒程の建物が散在して建っており、いずれも茅葺きの屋根である。この部分が横浜村の中心地で、集落の形成地ということになる。開発前図における各村の家数は必ずしも実際の数を表現しているとは考えられないが、他村と比較しての多少と、集落の場所については一定度正確であると思われる。地形的にも西側に丘陵を控えており、丘陵の下に形成される谷戸はその最奥に湧水が湧出する場合が多く、水田稲作の適地である。上部にみえる「古田有」の文字は、この部分に「古田」=従来からの水田が存在していることを示している。

図3 開発前図(現在の元町付近)
図3 開発前図(現在の元町付近)

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