横浜開港資料館

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「開港のひろば」第134号
2016(平成28)年10月28日発行

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企画展
明治天皇と横浜

凱旋観艦式

【図5】凱旋観艦式 宮内公文書館蔵
【図5】凱旋観艦式 宮内公文書館蔵

明治維新以降、日本は欧米列強に対抗するため、殖産興業とともに、富国強兵を推し進めていった。神奈川県では、横須賀が軍艦建造の拠点となったほか、国内外の軍艦が出入港する横浜には、それらを管轄する東海鎮守府も設置された。その後、鎮守府は横須賀に移転したものの、軍艦の出入港は続いていく。

日露戦争終結直後の1905(明治38)年10月23日には、横浜沖で凱旋観艦式が催され、明治天皇は海軍の統帥者として艦艇の観閲を行った。これが横浜における最初の観艦式となり、市民をはじめ大勢の見物人が詰めかけた。

午前9時20分、横浜に到着した明治天皇は、税関前の浮桟橋から御召艦に指定された装甲巡洋艦「浅間」にむかった。午前10時10分、明治天皇を乗せた「浅間」は抜錨して横浜港外に進み、165隻の艦艇が整列するなかを航行した。そのなかには、アメリカや同盟国であるイギリスの艦艇も加わっていた。明治天皇は海軍大臣の山本権兵衛や連合艦隊司令長官の東郷平八郎とともに、艦艇の観閲を行った。その後、幹部に対して勅語を発し、海軍の名声を発揚せよと指示した。

午後3時20分、税関監視部前から上陸した明治天皇は、多くの市民が見送るなか、午後3時45分に横浜停車場から還幸の途についた。凱旋観艦式は日露戦争の終結を人びとに印象づける一大イベントとなり、また、明治天皇の最後の横浜行幸ともなった。

(吉田律人)

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