横浜開港資料館

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「開港のひろば」第134号
2016(平成28)年10月28日発行

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展示余話
戦後の貿易再開と横浜芝山漆器

安政6(1859)年の開港以来、横浜港からは大量の漆器がヨーロッパやアメリカに輸出された。こうした伝統は昭和に入っても続き、昭和元(1926)年に横浜港から輸出された漆器の輸出総額は83万円を超えた。この額は日本全体の漆器の輸出総額の約46%にあたり、この段階でも横浜港は日本第一の漆器の輸出港であった。また、横浜港からの漆器の輸出額は昭和9(1934)年には138万円に達し、その後も若干の変動はあるものの100万円以上の漆器が輸出され続けた。輸出額が著しく減少したのはノモンハン事件が勃発した昭和14(1939)年で、これ以後、相次ぐ戦争の勃発によって輸出額が激減し、終戦前後には漆器の輸出が途絶した(『横浜市史』資料編2)。貿易港として発展してきた横浜にとって、戦後、どのように輸出貿易を復興させるのかは横浜の政財界の大きな課題であり、神奈川県や横浜市は漆器輸出の再開に向けて模索し始めた。

村田家に残された記録

村田家は幕府の譜代御家人の系譜を持つ家で、明治初年に村田鋼平が横浜に移住し、横浜芝山漆器の職人として活動を始めた家である。横浜芝山漆器は横浜で生産され、横浜港から大量に輸出された漆器のひとつで、開港以来、西洋の人びとに親しまれ続けた工芸品である(横浜開港資料館編『横浜芝山漆器の世界』参照)。また、村田家は代々、漆器職人として横浜芝山漆器を作り続け、終戦当時の当主は鋼平の孫にあたる貞良であった。現在、村田家には戦後の横浜芝山漆器の生産に関する記録が残され、横浜開港資料館ではこれらの資料をお預かりして保管している。

村田商店が販売した横浜芝山漆器
(村田禎男氏所蔵、村田商店の商品カタログより)
昭和30年代に販売された商品と伝えられる。
村田商店が販売した横浜芝山漆器(村田禎男氏所蔵、村田商店の商品カタログより)昭和30年代に販売された商品と伝えられる。

村田家に残された資料によれば、神奈川県と横浜市が貿易の復興に向けて動き出したのは昭和21(1946)年5月で、県と市は神奈川県貿易産業協会を通じて輸出産業の復興促進事業を開始した。この時、輸出産業に従事する人に製品製作費を交付し、出来上がった製品を見本として外国人に見せることになった。村田家では5点の横浜芝山漆器を作ることになり、2000円の交付金を受けた。また、翌年9月には横浜市が漆器製作に対する補助金を交付することになり、村田家に対して5800円が交付された。当時、記された申請書には交付金を使って花鳥図の額や盆、漆器の表紙を付けた写真アルバム6点が作られている。はたして終戦直後の段階で、横浜芝山漆器の生産と輸出がどの程度復興したのか具体的には分からないが、幕末以来の伝統を持つ漆器の製造が県や市の援助を受けて歩み始めたようである。

村田商店が販売した飾額
(村田禎男氏所蔵、村田商店の商品カタログより)
村田商店が販売した飾額(村田禎男氏所蔵、村田商店の商品カタログより)

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