横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第134号  企画展  明治天皇と横浜〈1〉

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第134号
2016(平成28)年10月28日発行

表紙画像

企画展
明治天皇と横浜

明治天皇が初めて横浜付近を訪れたのは、1868(明治元)年に京都から東京へ行幸(東幸)する時であった。以降、明治天皇は海外に開かれた横浜をたびたび訪れるようになる。こうした明治天皇と横浜との関わりを明らかにする貴重な史料は、宮内公文書館が所蔵する宮内省文書に数多く含まれている。ここでは、展示資料の一部を紹介しながら、地域史の視点から明治天皇と横浜の関係をひも解いていきたい。

明治天皇の東幸と横浜

1868(慶応4)年4月、王政復古を経て樹立した明治政府に江戸城が引き渡された。さらに政府は同年七月に江戸を東京に改めるなど、東京を中心とした近代国家を目指す政策を進めていった。

そうした時期に、明治天皇の東幸が行われた。9月20日に明治天皇を乗せた鳳輦(ほうれん)は京都御所を発し【図1】のような行列を組み、およそ20日をかけて東京へ向かった。行列には岩倉具視、中山忠能ら公家、伊達宗城ら諸侯のほか木戸孝允など総勢3,300人余りが供をした。

【図1】東幸行列図 宮内公文書館蔵
【図1】東幸行列図 宮内公文書館蔵

公家である広橋胤光は、日記に東幸の目的を「東京鎮撫之為」と記している。しかし実際には通過する村々に、農商業天覧の布達が出るなど、明治天皇が人びとの暮らしを確認するという意味合いもあったようである。

明治天皇をむかえるにあたって地域側でも様々な準備が進められた。例えば9月の段階で、神奈川宿(現・神奈川区)では土橋の普請とその後の管理が、鶴見村(現・鶴見区)では道路の普請が、それぞれ命じられている。実際に明治天皇が横浜市域を通行するのは、10月11日、12日にかけてであるが、地域では事前の準備が着々と進められていた。こうした点からは、東幸が「東京鎮撫」や農商業天覧のみならず、地域の交通インフラを整備する契機となったことがうかがえるだろう。

鉄道敷設や軍艦への乗船など、明治時代を通じた明治天皇と横浜の密接な関係は、東幸を契機として始まったのである。

汽笛一声、横浜行幸

近代国家への指針として殖産興業を目指し、その一環として明治政府は1869(明治2)年に鉄道の建設を決定、1870年に新橋―横浜間の鉄道建設工事に着手すると、わずか2年後には同区間の開業をむかえる。1872年9月に横浜・新橋の両駅で開催された鉄道開業式は、明治天皇臨席のもと、賑やかに執り行われた。

さて、鉄道敷設工事であるが、根強い反対運動も起こり難航した。特に鉄道用地の買収はなかなか進まず、高輪や神奈川の付近では海を埋め立て、堤を築いて線路が敷設された。神奈川付近の埋め立てを請け負ったのが、佐賀藩御用達の高島嘉右衛門であった。埋立地一帯は完成後、高島に貸与され高島町(現・西区)と命名された。

このような困難を乗り越え、1872年9月12日(新暦では10月14日)に鉄道開業式をむかえた。【図2】は鉄道開業式のために飾り付けされた横浜駅を撮影したものである。横浜での開業式は午前11時から行われ、式に際しては、二つの勅語が作られた。一つは開業式に際してのもの、もう一つは「東京横浜ノ人民」に向けたものであった。

【図2】鉄道開業式当日の横浜駅 宮内公文書館蔵
【図2】鉄道開業式当日の横浜駅 宮内公文書館蔵

後者のなかでは、鉄道の開業により交通が利便化することで、貿易はいよいよ繁昌し、これによって庶民の利益が富盛になるようにと願っている。ここから殖産興業を目指した鉄道敷設の目的がうかがえる。

この後、鉄道は行幸啓や六大巡幸に際して欠かすことの出来ない交通手段となる。また、人びとにとっても物資輸送や移動圏拡大に大きな影響を与えていくのである。

(宮内公文書館 篠風C太)

続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲