横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第134号
2016(平成28)年10月28日発行

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企画展
明治天皇と横浜

横浜御用邸

横浜御用邸は、横浜港を見渡す伊勢山中腹に位置し、明治天皇の横浜港利用のために設けられた御休憩所であった。だが現在では、横浜に皇室関連施設があったことはあまり知られていない。

1875(明治8)年に設置された後、移転等を経て最終的に1907年に廃止された。設置当初は正式名称がなく、地名にちなんで伊勢山離宮と通称されたが、1881年になって横浜御用邸と正式に定められた。現在の西区宮崎町付近で、当時は横浜港の内外を眺望できる場所であった。

1875年、宮内省では三井組が所有する土地と洋館を買い上げて、明治天皇の御休憩所とした。それまで御休憩所とされた大蔵省出張所が、狭隘で粗悪なものであったためという。【図3】は設置当初の図面である。宮内省が三井組所有地を取得するための手続き書類に収められている。横浜御用邸の設置過程をうかがえる貴重な資料である。

【図3】横浜御用邸図面 宮内公文書館蔵
【図3】横浜御用邸図面 宮内公文書館蔵

1876年7月20日には、明治天皇の東北・北海道巡幸時の帰路にも利用されている。横浜港に着艦後に休憩したのが、横浜御用邸であった。この日は国民の祝日「海の日」の由来として知られており、横浜にも関わりの深い祝日である。さらに、1881年にはハワイ国カラカウア皇帝の宿所として利用されるなど、国際親善の場としても活用された。

その後、1885年には伊勢山にあった御用邸は廃され、海に面した東海鎮守府の跡地(現・中区北仲通)に移転された。1907年の廃止まで、横浜港や根岸競馬場への行幸・行啓などで利用された、横浜と皇室をつなぐ施設であった。

根岸・競馬天覧と条約改正

根岸競馬場は、居留外国人の手による本格的洋式競馬場として、1866(慶応2)年に完成した。同競馬場は居留外国人の社交場として利用されたが、明治天皇の競馬天覧も1881(明治14)年から1899年までの間に計13回催された。

なかでも競馬天覧の最後となった1899年は、不平等条約が改正された年と重なる。「日本競馬会社」社長である英駐日公使アーネスト・サトウの行幸願を受けてのものであった。改正条約・内地雑居の実施を7月に控えるなか、同年5月9日に明治天皇の行幸が実現した。

行幸当日には、横浜居留地在住諸外国臣民総代ロビンソン(イギリス人貿易商)の上表文が披露されるなど、居留地住民から盛大な歓迎を受けた。不平等条約が改正された同年をもって、根岸競馬場への行幸は一つの役割を終えた。国家元首である明治天皇の行幸は、政府が条約改正交渉を続けるなかで国際親善に少なからぬ影響を持ったのである。

他方、1899年5月の明治天皇の行幸以降も皇太子、皇族が臨席したほか、現在の天皇賞につながる皇室からの優勝賞品の下賜が続いた。宮内省で儀式に関する事務を行う式部職では、日本競馬会に関する書類が集積された。【図4】はその一例で、1910・11年に日本競馬会で使われた入場チケット・番組表である。皇室と競馬との関係は、1899年の競馬天覧以降も途絶えることなく、皇室として競馬文化を積極的に奨励したのである。

【図4】日本競馬会の入場チケット・番組表 宮内公文書館蔵
【図4】日本競馬会の入場チケット・番組表 宮内公文書館蔵

(宮内公文書館 辻岡健志)

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