HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第133号 資料よもやま話 避暑地を選ぶ ―102年前の横浜貿易新報社「県下避暑十二勝新撰」〈4〉
「開港のひろば」第133号
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資料よもやま話
避暑地を選ぶ
―102年前の横浜貿易新報社「県下避暑十二勝新撰」
横浜市内の新十二勝地
現在の横浜市内で紹介された新避暑地は、6位金沢村富岡・7位本牧三の谷・12位磯子海岸と選外の杉田である。どのように書かれたのかを見てみよう。
①富岡海岸(7/20、21)
富岡海岸は横浜と金沢の中間に位置し、横浜電車の終点八幡橋から1里8丁(4.8キロ位)の距離にある。明治初期から外国人により海水浴が行なわれており、「医者要らずの土地」と言われた。明治10年代には横浜近郊の遊楽地として訪れる人が増え、海宝楼や金波楼といった割烹旅館が出来た。山県有朋をはじめとする中央政界や実業界の人々が訪れ、別荘も作られ賑わったが、東海道線が開通すると海水浴客も別荘も大磯方面に移ってしまった。しかし、懸案だった道路を改修し、交通の便が少しは良くなった。海水浴には至極適当な場所であり、良い飲料水にも恵まれている。鮮魚やレンコンなどの野菜とともに、花の名産地で、菊・芍薬・桔梗・薔薇・スイトピー・カーネーション・スミレ、球根等数十種を東京や横浜に搬出している。春は蕨狩り、夏は水泳、秋は茸狩り栗拾いに、冬は兎狩りと、年中慰楽の絶えることはない。十二勝に選ばれたのを機に、青年会や有志が協力して鎮守の八幡社のある八幡山に、遊覧客を誘致すべく遊園地を作っているという。
②本牧三の谷(7/22)
本牧は横浜市の東南方に位置し、東京湾に突き出た岬で県下有数の避暑地である。春夏秋冬の四季を通じた遊園として、生糸貿易により財を成した実業家原富太郎の三渓園が存在するのは、三の谷の大いなる誇りである。総面積6万坪の三渓園は、自然の地区に典雅な人工物を加え、歴史的な建築物を背景にした「現代的新設備」の公園である。先代善三郎の銅像がたっているが、それを境として独特の人工美と自然美とが広がる。三重宝塔が偉観を添えている。
本牧一帯の沿岸は浅く水が綺麗で、十二天、小湊、旭館や本牧花屋敷など到るところに良い海水浴場がある。
③磯子(7/28)
明治45年の夏に横浜貿易新報社が海水浴場を開くまでは、無名の勝地であった。海岸の埋め立てに伴い土地が開発され、海水浴場としての施設は定評のあるところである。近くラジウム泉の発見があり、夏だけでなく冬も人を招致する材料が豊富である。
加えてこの時、横浜貿易新報社の海水浴場では、各勝地居住者並びに後援者の努力を賞して十二勝投票用紙を陳列した。
勝地のその後
21年後の昭和10(1935)年に、創業45周年を迎えた横浜貿易新報社は、その記念に「名勝史蹟四十五佳選」投票を行なった。必ずしも「避暑地」の投票ではないので一概には言えないが、前回の避暑十二勝はほとんど選ばれていない。選ばれたのは、十二勝投票にも熱心だった2箇所で、1位石小屋(十二勝2位の愛川村半原)、19位鮎の水郷田名(十二勝11位の相模河畔田名)である。
四十五佳選投票では、町村や諸団体の組織票が前提とされていた(百瀬敏夫「一九三五年神奈川県名勝・史蹟投票―横浜貿易新報社四五周年記念事業―」『市史通信』6号、横浜市史資料室、2009年)。半原や田名などは、横浜貿易新報社の投票をきっかけに、観光面での地域振興につながったのかも知れない。
(上田由美)