HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第133号 特別資料コーナー オリンピックに行った横浜の郷土史家 ―栗原清一(くりはら せいいち)―
「開港のひろば」第133号
|
特別資料コーナー
オリンピックに行った横浜の郷土史家
―栗原清一(くりはら せいいち)―
栗原清一は、野毛の薬種商(やくしゅしょう)であった栗原清八郎の長男として、明治17(1882)年に生まれた。大正2(1913)年に九州帝国大学医学部を卒業し、東京帝国大学精神病学教室で助手を務めるなど研鑽を積んだ後、大正9(1920)年には横浜市中区常盤町(ときわちょう)に栗原脳神経脊髄科院を開業した。
開業医のかたわら栗原は、関東大震災後、横浜の歴史資料の調査と収集にも力を入れ、『横浜の伝説と口碑(くひ)』を出版したほか、横浜郷土研究会会長、横浜市史稿相談役、横浜史料調査委員を務め、昭和初期の横浜の歴史研究に大きな足跡を残した。また大正14(1925)年には、震災前に発足し、震災後に再結成された横浜野球協会の相談役に就任し、昭和6(1931)年には横浜市体育協会常務理事にも就任した。
昭和11(1936)年には、第11回夏季オリンピックがベルリンで開催され、その4年後には、東京で12回大会の開催が予定されていた。横浜市と横浜市体育協会は、ベルリン大会開催前からホテルの新設や各種競技の横浜への誘致運動を行っていた。ベルリン大会には、131名の選手が派遣され、前回の第10回ロサンゼルス大会に続き、平沼亮三が派遣選手の団長を務めた。栗原も、横浜市体育協会の役員として、ベルリンに赴いている。写真1は、栗原がベルリンから持ち帰ったと伝えられる、ベルリン・オリンピック開会式の写真である。本資料など、栗原のスポーツ関係資料を、8月5日(金)から31日(水)まで、特別資料コーナーで紹介する。
(石崎康子)