横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第133号
2016(平成28)年7月22日発行

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企画展
明治のクール・ジャパン
横浜芝山漆器の世界

横浜芝山漆器 子とろ図 飾額 明治時代 金子皓彦氏蔵
横浜芝山漆器 子とろ図 飾額 明治時代 金子皓彦氏蔵

開港直後から横浜では輸出向けの漆器の製造がおこなわれた。これを「横浜漆器」と呼んでいる。「横浜漆器」には江戸時代に現在の千葉県山武郡芝山町で製造が始まり、江戸向けの商品として作られ続けた芝山細工の流れを引く横浜芝山漆器、会津(福島県会津若松市)や駿河(静岡県静岡市)などから移住した職人によって製造された「横浜青貝細工」があるが、いずれの作品も横浜生まれの工芸品として海外で高い評価を受けた。

漆器を扱った商人や職人にどのような人がいたのかをすべて調べることはできないが、明治14(1881)年に刊行された『横浜商人録』には58軒の塗物商(漆器商)と13人の塗師商(漆器職人の店)が横浜にいたと記されている。同書には店の所在地も記載されているが、塗物商は本町や弁天通りに、職人は元町に多く居住していたから漆器関係の店が建ち並ぶような通りがあったようである。

ところで、「横浜漆器」には屏風や箪笥などの大きなものから手箱・盆・額・写真アルバムの表紙などまでさまざまなものがある。これらの作品は、漆器の表面に貝・象牙・鼈甲・珊瑚などをはめ込んだもので美術品としての価値も高い。展示では伝統的な工芸品のコレクターとして著名な金子皓彦(てるひこ)氏から「横浜漆器」を多数出品いただいた。また、村田禎男氏からは、昭和52(1977)年まで横浜芝山漆器の製造を横浜で続けた禎男氏の父である村田貞良氏の関係資料を出品いただいた。さらに、横浜芝山漆器製造の技術を現在に伝える宮崎輝生氏(横浜マイスター)からも作品を出品いただいた。こうした作品や資料を展示することによって、横浜で活躍した匠の技と漆器輸出の歴史を知っていただけると思う。

横浜からの輸出商品といえば生糸や茶を思い浮かべることが多い。たしかに漆器の輸出額は生糸や茶にくらべればはるかに少ない。たとえば年次によっても変動があるが、明治時代においては漆器の輸出額が、生糸の輸出額の1パーセントにも満たない年も多い。しかし、日本から輸出された「横浜漆器」に代表される工芸品が西洋諸国の人びととの文化交流に大きな役割を果たしたことは間違いなく、横浜はその輸出港として海外に広く知られることになった。

(西川武臣)

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