横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第133号
2016(平成28)年7月22日発行

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展示余話
吉田新田の開発過程と資金調達
―万治2年「請取申金子之事」を素材に―

「惣中間」は、一口=1株を所持する5人の人物から構成されていたと思われる。そのメンバーとしては、この史料にみられる坂本七兵衛や砂村新左衛門などが想定されるが、残念ながら全ての構成員は判明しない。あるいは「金本」である吉田勘兵衛が「惣中間」の五口分の内、一口ないしは二口分を所持していた可能性も想定される。

「惣中間」のメンバーは、それぞれ必要な資金を拠出することになっているが、実際には単独で一口分を提供できない人物もおり、この場合は第三者から資金を調達して一口分を賄うことになろう。おそらく坂本七兵衛は「惣中間」の一人ではあるが、自己資金だけでは一口分全てを調達することができず、柚川作之丞から50両の資金提供を受けたのであろう。「右之金子五拾両ハ我等内へ御入候」とあるように、柚川作之丞が支出した50両は、坂本七兵衛の一口分へ入ったのである。ここから想定すれば、「惣中間」一口分の支出金額は、その10倍から20倍にあたる500両から1000両程度の規模ということになり、全体で5000両から10000両の予算が想定される。

次にこうした資金提供に対する対価を確認しておきたい。「金高ニ応し新田之地広狭可有候」とあるように、拠出した金額に応じて、新田耕地の分配が規定されている。

この耕地の分配=「地割」は、実際には新田開発が一段落した段階で実施され、まずは「惣中間」と「金本」=吉田勘兵衛の間で分割されると考えられる。そして、自己資金のみでは一口分を供出できなかった「惣中間」の場合は、自己で与えられた耕地をさらに拠出金額に応じて分配するのであろう。

「金本とも新田地割之時分貴殿へも割口可遣候」とあるように、新田の開発が一段落して「金本とも(共)」が新田耕地の「地割」(耕地の分配)を行う際に、「貴殿」=柚川作之丞へも支出金額に応じた耕地の分配が行われることを坂本七兵衛が述べているのはこうした事柄であろう。ただし、一口分のさらなる分割について、他の「惣中間」が関与・認知しているとは考えがたく、分配された土地所有の権利関係が複雑化する要因になったものと思われる。

こうした「惣中間」への耕地の配分は、新田の生産性の上昇・安定をふまえて寛文4年に行われたものと考えられる。その後、吉田勘兵衛は寛文9年(1669)から延宝3年(1675)にかけて「惣中間」のメンバーへ配分された吉田新田内の耕地をあらためて購入しており、最終的には新田内部の全ての耕地が吉田家の所有となっていくのである。

(斉藤 司)

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