横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第133号
2016(平成28)年7月22日発行

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展示余話
吉田新田の開発過程と資金調達
―万治2年「請取申金子之事」を素材に―

開発工事の工程と「完成」の意味

吉田新田の工事は明暦2年(1656)7月17日に第1回目が開始されたものの、翌明暦3年(1657)5月の大雨により堤防が崩壊して失敗に終わった。ここからは開発工事の最初の段階が堤防の構築であるとともに、工事を開始して10か月の期間で失敗と認識される規模の堤防が構築されていたことがわかる。すでに新田の周囲を取り囲む堤防は一応完成しており、釣鐘型とされる新田の頂部の堤防が増水した大岡川の圧力に耐え切れず崩壊し、ある程度干上がっていた新田の内部へ流れ込み、海側に面した潮除堤を裏側=西側から崩壊させたものと思われる。

こうした失敗をふまえて、第2回目の工事が万治2年(1659)2月11日に開始された。頂部の堤防の構造を強化するなどの対応策を講じた上での再度の工事であろう。

さて、先述の史料はそれより約半年後に出されたものである。受領した金50両の内容は「金沢領野毛村新田堤之入用金」である。この内、「野毛村新田」とは、野毛村の地先沖合に開発している新田の意味であり、後の吉田新田のこと。「堤之入用金」とは新田を取り囲む堤防工事の費用になる。したがって、この50両は吉田新田開発に関わる資金の一部ということになり、第2回目の工事も堤防の築造から始められていることがわかる。

第1回目の工事の進展度からは、この新田を取り囲む築堤作業は1年間程で終了し、次いで用水路・道路の造成と田畑の地割が進められたと思われる。こうして寛文2年(1662)より耕作が開始されるが、海に造成した新田であるため、当初は生産力も低く不安定であったことだろう。その後、耕作を行いながら次第に生産性が上昇・安定した結果、寛文7年(1667)に耕地の石高と所有者=年貢負担者が確定され、「完成」にいたるものと思われる。吉田新田の形が出来ることが完成なのではなく、その耕地が一定の生産力を持つようになってはじめて「完成」するのである。

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