横浜開港資料館

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「開港のひろば」第124号
2014(平成26)年4月19日発行

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企画展
“蚕の化せし金貨なり…”
−明治大正の生糸産地と横浜

小野組と初期器械製糸

三井・島田・小野の為替方は、廃藩置県後は「府県方」と呼ばれ、府県から政府にあてた公金や貢米の送付業務を担ったが、とくに小野組はその運用で巨利を得て、多様な事業に進出した。

生糸関連では、明治3(1870)年糸店を東京に開き、井筒屋善右衛門店(いづつやぜんえもんだな)を横浜に置いて生糸売り込みにのり出す一方、明治4年東京に築地製糸場を開業し、翌5年には深山田(みやまだ)製糸場(諏訪)を、引きつづき二本松製糸会社を開いた。同社は、明治6年4月に小野組資金をふくむ民営製糸として設立され、6月に操業を開始した。支配人は佐野理八であった。建設の指揮にあたったのは国内最初の器械製糸である前橋製糸場や富岡製糸場にたずさわった速水堅曹(はやみけんそう)。工場は二本松城趾に置き、動力は水車で、水源から16キロメートルにおよぶ水路が開鑿された(図3)。

図3 二本松製糸会社 明治10年頃 山田愛子氏蔵
城趾の石垣の上に製糸場が建てられた。
当初96人繰りであったが、逐次増強されて、8年後には、168人繰りとなった。
図3 二本松製糸会社 明治10年頃 山田愛子氏蔵 城趾の石垣の上に製糸場が建てられた。当初96人繰りであったが、逐次増強されて、8年後には、168人繰りとなった。

しかしながら、小野組は公金扱い高に対する抵当増額という政府の府県方引き締め策に対応できず、7年に島田組とともに崩壊した。小野組が関与した器械製糸は資金的裏づけを失い、廃業するか、地元資金で操業を続けるかの選択にせまられた。築地・深山田は廃業となり、二本松は公的資金の導入もあって残った。

二本松製糸は、創業時富岡製糸と肩をならべる良質糸を産出したことが判っている。掛田糸や二本松製糸の地盤は、当時全国一の「種の本場」である信夫(しのぶ)・伊達(だて)両郡の蚕種生産地域であり、比較的統一された原料繭が得られたことが理由にあると思われる。米国向け生糸として高い評価を得た二本松製糸の社中は、明治9(1876)年地元の安西徳兵衛(あんざいとくべい)を横浜に送って生糸商を開業せしめ、翌10年よりは副社長山田脩(やまだおさむ)をニューヨークに派遣して、生糸直輸出に乗り出すという、流通面での新たな取り組みを開始することになる。

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