横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第124号
2014(平成26)年4月19日発行

表紙画像

企画展
“蚕の化せし金貨なり…”
−明治大正の生糸産地と横浜

福島県掛田糸とその商標

横浜の生糸市場では「糸価は一時、商標は永久」といわれた。生糸が荷主の商標(プライベート・チョップ)をつけて、横浜に出荷された最初は、明治8(1875)年の福島・佐野理八組(さのりはちくみ)の「娘掛田(むすめかけだ)」商標とされる。佐野は、明治5(1872)年、政府の御用商で三井・島田とともに為替方三家(かわせかたさんけ)と称された小野組に請われて奥羽七県総支配人となった人物である。

ヨーロッパでの蚕病の流行による生糸の品薄から、横浜開港後の日本産生糸は品質を問わず輸出されていった。しかしながら明治初期には蚕病からの立ち直りをみせはじめたこともあって、海外の需要者は日本糸の粗悪さを批判するようになった。

生糸が、家内手工業から生産される座繰りの時代、佐野は福島周辺の「鉄砲造(てっぽうづくり)」と称される美麗ではあるが切れの多い生糸を改良した。生糸を繰り枠である小枠から、大枠に揚(あ)げ返す段階で「綾振(あやふり)」(小枠から出た糸が左右に動いて、大枠に一定の厚さで巻き取る仕組み)を用いて能率を高め、簡素な束ね方をして「掛田折返糸(かけだおりかえしいと)」として声価を高めた。さらに佐野は生産農家に対して良質の蚕種(蚕の卵)を配布して養蚕から繰糸をさせ、揚げ返し器を産地に頒布して普及させるなどして、生産段階からの品質向上につとめた。「娘掛田」チョップ誕生の背景には、佐野による生糸品質の改良努力とブランド糸としての自負があった。

商標は江戸期でも使われているが、近代的な登録制度が採用されるのは「娘掛田」から9年をへた明治17(1884)年であった。その間の商標が貼付されている『商標類鑑(しょうひょうるいかん)』(当館蔵)は、蒐集者不詳の貼り込み帖で網羅的ではないが、「娘掛田」の成功以降、掛田糸に商標をつけて横浜市場に出荷する者が増えたとされる説の裏づけとなる。

図1は、二本松の呉服・太物商でもある「糀屋市之丞(こうじやいちのじょう)纂輯糸(さんしゅういと)」の商標。その印刷は、江戸期以来の銅版業「玄々堂(げんげんどう)」の麒麟図である。図2は、三春の生糸商釜屋善吾(かまやぜんご)の美麗な「三春駒」の商標。その他商標を残した荷主は多い。明治11(1878)年横浜に第七十四国立銀行が開設され、同時に二本松支店が置かれる。同年三春にも第九十三国立銀行が開業するなど、金融条件が整ったことが、掛田糸商人の商機を後押ししたと思われる。

図1 二本松糀屋市之丞纂輯糸「白麒麟」商標
当館蔵
図1 二本松糀屋市之丞纂輯糸「白麒麟」商標 当館蔵
図2 三春釜屋善吾「三春駒」商標
当館蔵
図2 三春釜屋善吾「三春駒」商標 当館蔵

横浜市場での生糸取引は少量では売り方に不利であった。そのため座繰り糸をあつめて仕上げ工程を管理して品質を揃え、横浜に送り出す「改良座繰り」が一般化していった。その成功例が、明治11年結成の群馬県・碓氷社であるが、三春でも、12年に生糸商主体で「三盛社(さんせいしゃ)」なる結社をつくり出荷することになる。その後明治22(1889)年には福島町に福島共同生糸荷造所が組織されて、掛田糸の巨大荷主が出現する。明治10年代、掛田糸が産出される地域は自由民権運動が盛んであったが、「自由販売説」を主張して統制を拒否した掛田糸産地の生糸商も負けずに活発な活動を展開していたことが、商標から感じ取れるのである。

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