横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第124号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第124号
2014(平成26)年4月19日発行

表紙画像

資料よもやま話
平山煙火製造所と小野家資料

はじめに

この度、南区在住の小野哲男氏から、平山煙火製造所関係資料の寄託を受けることになり、現在整理をすすめている。

平山煙火製造所は、明治10(1877)年に平山甚太が岩田茂穂と共に設立した。ここから、「西洋花火」の歴史が始まった。平山は、三河国吉田藩(現在、愛知県豊橋市)の武士で、勘定方を務める傍ら火薬製造にも従事していた。岩田は豊前中津藩(現在、大分県中津市)出身で、同郷の福沢諭吉の門下生であった。平山は、明治16(1883)年8月7日、昼花火により日本人で初めてアメリカ合衆国の特許を取得したことでも知られている。

平山と岩田の事業を継承し、平山煙火製造所を運営したのが小野栄之助であった。その後製造所は、小野の親族等によって戦後まで続いた。以下、小野家に残された資料を紹介したい。

平山煙火製造所の沿革

「平山煙火製造所沿革及ビ履歴概要」(図1、以下「沿革及履歴」と記載)は、大正4(1915)年9月6日付で平山煙火製造所が東京市役所に提出した書類の控えで、沿革と履歴に分けて記載されている。履歴の冒頭部分に、明治38(1905)年7月28日の火災のため古記録の大部分を焼失したので、残存する僅少の記録及び記憶によると書かれているので、当時発行された新聞等を確認しながら沿革を見ていこう。

図1 平山煙火製造所沿革及ビ履歴概要
大正4年9月6日 小野哲男氏寄託
図1 平山煙火製造所沿革及ビ履歴概要 大正4年9月6日 小野哲男氏寄託

平山甚太は日本の花火が将来欧米市場に歓迎されると考え、明治10年に内田町(現在、中区)に工場を設け、三河から熟練の職人を呼び寄せ、平山煙火製造所を開業した。同13年に、工場を駿河町3丁目(現在、中区弥生町)に移転した。同14年には、関係者の疋田又右衛門と職工数名をアメリカに派遣し、日本の花火の紹介を兼ね同国の煙火業の実情を視察して製品の改良に役立てようとした。『時事新報』(明治16年7月2日)によれば、この時派遣された5人の職工たちは、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアをまわって花火を打ち上げ、翌年帰国したようである。

明治21(1888)年3月から8月まで、商品の改良と販路の拡張を企画し、岩田茂穂を欧米に派遣した。同年10月には、横浜市蒔田町に1900余坪敷地を賃借して工場を移転し、設備を拡張した。

アメリカ留学を経験した小野栄之助が、明治30年代後半に平山煙火に入社した。この頃には創始者の平山(明治33年9月15日没)も岩田(明治35年7月5日没)も既におらず、花火に関する豊富な経験を持ち、海外の商況に通暁する小野が営業者となり、明治42(1909)年株式会社(登記は6月11日)とした。

続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲