HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第124号
「開港のひろば」第124号
|
資料よもやま話
平山煙火製造所と小野家資料
小野栄之助について
小野栄之助の墓は保土ケ谷区神戸町の天徳院に在り、「平山煙火職工中」と彫られた一対の灯篭の正面奥に、墓石が立っている。小野が千葉県市原市にあった南総学校の教師をしたことから、同校創始者で校長の川上規矩により大正3(1914)年8月28日に書かれた碑文が、墓石の裏側に刻まれている。その拓本が資料に含まれている。
碑文によれば、小野は明治9(1876)年11月4日、現在の保土ケ谷区神戸町に生まれた。東京の国民英学会、築地英学校で英語を学び、明治31(1898)年8月から南総学校の教師となり、川上との親交が始まった。
一年後アメリカの商業大学へ留学し、明治35年5月に商業学士号を得、日本のある商会の在米支店長となったが、翌年8月に辞任して帰国した。「沿革及履歴」と記述が異なるが、小野はアメリカから帰国して、すぐに平山煙火に入社したのだろう。
明治42年から平山煙火製造所を経営。将来を嘱望されたが、大正2(1913)年8月21日に亡くなった。小野没後は、妻よしが相続する。
この頃、蒔田町は人家が多くなってきたので、大正3年12月、工場を南区永田に移転した。