横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第124号
2014(平成26)年4月19日発行

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企画展
“蚕の化せし金貨なり…”
−明治大正の生糸産地と横浜

下諏訪三井仁兵衛のこころみ

下諏訪の三井仁兵衛(みついにへい)は、明治4(1871)年、座繰り製糸を組織して製糸業に進出した。9月27日に生糸7貫254匁を持って諏訪を発ち、横浜に向かった。自らの手で生糸を販売するためであり、横浜視察の意味もあったと思われるが、「横浜商館九十弐番 フランスシルト云」う外国商人に売り込んでいる。生糸は乾燥して6貫874匁に減耗していたが、三井は金306両余を手にした。翌5年は生糸商野澤屋に販売委託している。

三井は明治9(1876)年座繰りを廃して、水車動力の器械製糸30人繰りを諏訪大社秋宮境内に隣接した場所に開き(図4)、あわせて同業者らと「白鶴社(はくつるしゃ)」を組織し、社長となった。11年には設備を60人繰りに増強させる一方、生産改良のため、勧農局農業試験場の技術卒業生1名と製糸教婦2名を招き、良好な成果をあげている。

図4 下諏訪三井製糸場 明治中期 三井章義氏蔵
諏訪大社下社秋宮の境内に接した地区に操業。動力源の水車が見える。
図4 下諏訪三井製糸場 明治中期 三井章義氏蔵  諏訪大社下社秋宮の境内に接した地区に操業。動力源の水車が見える。

明治12(1879)年には諏訪郡下の製糸場に「伝習工女」を派遣して郡規模での製糸技術の向上をはかり、共同揚げ返し場(きょうどうあげかえしじょう)も新設した。明治14年の聯合生糸荷預所事件(れんごうきいとにあずかりしょじけん)の影響や不況で、「白鶴社」社員の製糸家にも休業におちいる者があったが、三井はかえって業務を拡張し、17年「白鶴社」を再興。19年には社員の製糸場に監督者を派遣して、生産管理を実施している。

明治20年頃には「白鶴社」生糸は亀屋・原商店(のち原合名会社)に販売委託され、輸出するようになっていた。三井は「白鶴社」を代表して原から無担保で原料繭購入資金(原資金・「製糸資本金」)を借り入れ、加盟製糸家に分配している。

明治20(1887)年には、福岡県久留米の下坂始(しもさかはじめ)・カネ夫妻に繰糸法の伝習を実施。下坂はのちに久留米製糸を開業した。以後ほぼ毎年、各地の製糸業勃興を技術伝習生受け入れのかたちで援助した。

その他としては、明治18(1885)年中山道と甲州街道終点の接点にある「綿の湯」周辺の公道を使って、繭市場を開設して、原料繭取り引きの便をはかった。三井は、明治33(1900)年、銀行類似会社「三井合名会社銀行部」を設置し、「下諏訪倉庫株式会社」を、第十九銀行・佐久銀行の資金協力で開業して、社長に就いた。32年の商法改正によって、倉庫に預けた商品の証券化が可能となり、製糸家は買い入れた原料繭を倉庫に預けて「倉荷証券」の発行を受け、その証券を地元銀行で割り引いて次なる繭購入資金などにあてる一方、預けた原料繭は、繰糸能力に応じて、分割して払い戻す「内出し」で操業を継続できた。営業倉庫は生糸産地の金融的自立という目的も含んでいたのである。

三井仁兵衛の製糸家としての特長は、産地のトータルな蚕糸業地化と不可分で行動したところにあった。このように視野が広く懐の深い起業家の存在が、日本製糸業の発展には不可欠であったろう。

(平野正裕)

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