横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第117号
2012(平成24)年7月19日発行

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企画展
「生麦事件 激震、幕末日本」
−本邦初公開のリチャードソン書簡から−

日本行きの願望

日本行きに初めて言及したのは1860年3月のことだった。体調を崩したリチャードソンは保養を兼ねて乗馬を楽しむために日本か中国南部への旅を望んでいると、父親に書き送っていたが、この時はまだ希望だけであった。しかし、ついに1862年5月2日付父親宛て書簡で、日本行きを告げた。

6月中旬頃に日本へ行きます。夏の間中、日本に滞在してから上海に戻り、できれば10月に入って最初の郵便船でイギリスに帰国しようと思います。でもまだ確かではありません。

さらに6月29日付父親宛て書簡では、日本への出発日が決定したことを知らせた。

先の郵便船で届いたばかりの5月10日付の父上からの手紙を前にして、早い内にと返事を書いています。というのも7月2日午前中に日本に発つので時間がないからです。先の手紙でも書きましたが、もし2、3カ月私から便りがなくても心配しないでください。日本との間の通信はとても不確かで不定期だからです。もちろん機会があれば手紙を書いて、中国人が「Tong Yau」[東洋か]と呼ぶ日本がどんなところなのか知らせましょう。誰もが日本はすばらしいところだと褒めすぎるので、がっかりした時のために備えて充分な心の準備もしています。

評判のよい日本への大きな期待と少しばかりの不安を抱いて、リチャードソンは日本へ旅立った。

横浜からの最初で最後の書簡

リチャードソンは予定どおり7月2日に上海を発ったようだ。

約2カ月を経た1862年9月3日、横浜から初めて、江戸の町や日本人の様子を楽しそうに父親に書き送った【図3】。しかし、この書簡が最後となってしまった。

【図3】最初で最後となったリチャードソンの横浜からの父親宛て書簡
1862年9月3日付 マイケル・ウェイス氏蔵
【図3】最初で最後となったリチャードソンの横浜からの父親宛て書簡 1862年9月3日付 マイケル・ウェイス氏蔵

ここ横浜へ来て約2カ月が過ぎたところです。さらにもう1カ月滞在するつもりです。中国の暑さを避けてから中国に戻ることができるからです。10月末頃に上海を発ってイギリスに帰国することができると信じます。そして二度と上海に戻ることがないことを望みます。[中略]
日本は、イギリス以外で、これまで私が住んだ国々の中で最もすばらしい国であり、丘や海岸の風景も壮大ですばらしいものがあります。来日して以来、あちこちと多くの場所を見て回りました。上海から馬を一頭連れて来たので、比較的自由に動き回ることができ、乗馬での散策もかなりよくしています。幸い江戸へ上る機会がありましたが、日本人が世界の他の地域に住む人びとから自分たちを隔絶してきたことを考えると、江戸は本当にすばらしい都市です。
江戸の官庁街はあらゆる西洋諸国に対してその価値を示すことができる一角です。まるでリージェント・ストリート[ロンドン中心部を走る大通り]のような広い通りが多数通っていて、通りの両側にはダイミョウ[大名]の家屋敷が建ち並んでいます。かれらはイギリスの貴族たちが昔、占めていたのとほぼ同じ地位を占め、どの大名も大勢の家来を抱えています。

この書簡からリチャードソンが日本と日本人に対してたいへん好印象を持ったこと、生麦事件に遭遇するまで少なくとも一度は東海道を上って江戸に行った経験があったこと、また上海から持ち馬を連れてきていたことがわかる。

書簡は、これまでの生麦事件と幕末史研究に大きな修正を迫るような新事実を提供できるわけではない。しかし、事件の背景とさまざまに描かれてきたリチャードソンの人物像に迫るための確かな資料となることは間違いない。それはまた、当時、中国で長く貿易に携わっていた多数の一般的なイギリス商人像にもつながると考えられる。詳細な分析と紹介は別の機会に譲りたい。

借用した書簡はすべて手書きであり、一見したところきれいな字で書かれているが、やはり書き手のくせがある。ウェイス氏から自身が作成した全書簡のタイプ原稿を事前に提供していただいた。もちろん借用した書簡原文と照合したが、出陳資料の選定・読解作業において大いに助けとなった。また本資料の調査・借用・翻訳に際し、大山瑞代氏(日英交流史研究家)にもたいへんご協力いただいた。ここにお二人のお名前を記して心より感謝申し上げます。

(中武香奈美)

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