横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第117号
2012(平成24)年7月19日発行

表紙画像

展示余話
江戸時代・明治時代の横浜の海

企画展「横浜の海 七面相」には、江戸時代から明治時代の横浜の海の様子を伝える絵図・写真・絵画などを多く出品したが、ここでは、その中から漁業や塩業に関係する3点の資料と幕末の横浜の海を紹介した『海岸紀行』を紹介し、かつて横浜の発展を支えた漁業や塩業の様子、海岸部の景観を眺めてみたい。

貝・藻・餌の採集

は、明治11(1878)年に作成された絵図で、現在の中区から金沢区の海岸を描いたものである。左下が本牧本郷村(現在、中区)で、右上が富岡村(現在、金沢区)の海岸にあたる。絵図には村境が記され、各村の前面に広がる海に貝・藻・釣りの餌を採集できる場所が図示されている。絵図の下には海岸に面した杉田村・森中原村・森村・磯子村・瀧頭村・根岸村に住んでいた漁民の総代が署名し、但し書きには各村に住む漁民たちが絵図に記された場所で、貝・藻・釣りの餌を採集することができると記されている。

①貝・藻・餌取場所絵図 明治11(1878)年 堤真和氏蔵
①貝・藻・餌取場所絵図 明治11(1878)年 堤真和氏蔵

現在、この海は高度成長の過程で埋め立てられ、住宅地や工場地帯になっているが、絵図はかつて村の前面に遠浅の海が広がっていたことを教えてくれる。漁民たちは海から貝や藻を採集し、これらを販売することによって暮らしを支えた。ところで、採集された貝・藻・餌の内、藻が畑の肥料として使用されたことは案外知られていない。当時の記録によれば、採集された藻は近隣の農村に販売され、畑の隅などに放置され塩分を抜いた後に、畑にすき込まれた。

肥料として利用された藻は、アマモ・ホンダワラ・アカモクで、カリウムを多く含む海藻は農作物に不可欠な肥料であった。残念ながら、当該地域での藻の販売量や販売先について記した記録はないが、絵図はこの地域の海が食料としての魚を獲る場所であっただけでなく、肥料生産の場所でもあったことを伝えている。

塩田の風景

は、明治時代中期の塩田を撮影した着色写真である。写真には「金沢の塩田」と注記があり、現在の金沢区の海岸部でおこなわれた塩生産の様子を撮影したものと思われる。写真に見るように、塩田は堤防によって海から閉ざされ、塩田には砂が入れられた。また、塩田の周囲には溝が掘られ、溝には海から海水が引き込まれた。さらに、溝の中の海水は毛細管現象によって塩田に浸透し、塩田の砂はしだいに濃い海水を含んだものになった。この砂を集めて再び海水を掛け、この海水の水分を蒸発させ塩が生産された。

②金沢の塩田 横浜開港資料館蔵
②金沢の塩田 横浜開港資料館蔵

こうした塩生産は中世に始まり、江戸時代になると地域の産業としておおいに発展した。なかでも現在の横浜市金沢区から川崎市にかけての地域は、東京湾の中でも塩業が発達した地域であり、明治20年代前半の段階で、あわせて50ヘクタール以上の塩田があった。また、明治43(1910)年に、専売局が塩業整備事業に着手し、この地域の塩田が順次廃止された段階でも30ヘクタール以上の塩田が存在した。

現在の横浜市域で、もっとも広い塩田を持っていた村は三分村で約8ヘクタール、以下、泥亀新田が約5ヘクタール、洲崎村と平沼新田が約4ヘクタールであった。金沢区の旧家布川隆義家には、明治5(1872)年の三分村の塩の生産量を記した文書があり、年間67トンの塩が生産されたとある。したがって横浜市域にあった塩田で生産された塩は明治初年の段階で、年間200トン程度には達したと思われる。

一方、塩の消費地については幕末期の記録があり、横浜市域で生産された塩が神奈川湊(現在、神奈川区、京浜急行神奈川駅付近にあった湊)に一旦集荷され、再度、江戸や行徳(現在、千葉県市川市)に出荷されたことが分かっている。また、行徳湊に集められた塩のなかには、利根川をさかのぼり「信州味噌」の原料になったものもあったといわれている。おそらく塩田の周辺には塩田で働く労働者だけでなく、塩商人も住んでいたのであり、塩業が地域の重要産業であったことはまちがいない。現在、この地域の塩田はすべて廃止され、住宅地に変わっているが、この写真はかつての海の姿を教えてくれる。

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