横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第117号
2012(平成24)年7月19日発行

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資料よもやま話
横浜におけるインド人の歩み
〜アドバニ家の足跡を中心に

今から60年前の1952年、対日講和条約が発効し、日本は独立を回復するとともに、日印平和条約が締結され、インドとの間に国交が樹立された。翌53年2月、チャンドル・アドバニ氏が横浜の大桟橋におりたった。カルカッタから四五日間の船旅であったが、当時の市中心部には接収地が広がっていた。

チャンドル氏は幼い時から父と祖父に日本での話を聞かされていた。アドバニ家とその親戚の横浜での足跡は一世紀を超える。その跡をたどりながら、横浜でのインド人の歩みを概観したい。

インド商人の横浜進出

インド商人の来浜は、タタ財閥の働きかけによる、1893年の日本郵船の神戸・ボンベイ航路開設に始まるといわれるが(二見仙平編『横浜輸出絹業史』昭和三三年)、それ以前の来浜がなかったわけではない。在日外国人年鑑のジャパン・ディレクトリーThe Japan Directory(以下JDと略す)で、横浜でのインド系商人の記載を探してみよう。確かにインド系と判明する記載は、1884年版の居留地五一番地「A.M.Essabhoy, Indian Merchant」である。これはイサボーイ商会で、1909年に発刊された『横浜成功名誉鑑』では201番地となっているが、一八七四年にM・イサボーイによって開設されたインド商館の巨商と紹介されている。

このイサボーイ商会や後に日本に帰化する熊沢インプレスをはじめ、初期に横浜にやってきたインド商人は、パールスィーであった。パールスィーはイランからインドのボンベイ付近に移住定着したゾロアスター教徒の末裔といわれる。

JDでは、イサボーイにつづき、1887年版の71番地にエブラヒムH.M. Ebrahim、1888年版の80番地にラヒカムM.M. Rahimkham、1892年版の52番地にシャカリーA.Shaikally & Co.の記載がある。パールスィーは絹物輸出のかたわら、インディゴ、羊皮、マットなどの輸入をおこなった。ボンベイ航路の開設以後は、横浜に進出する商館が増え、1897年版のJDでは、49番地にベサニアC.M. Bhesania & Co.、1900年版では41番地にゴーバイM.N.Gobhai &Co.が登場し、有力商館の開業が相次いだ。

これらと相前後して、ヒンズー教徒のシンディが進出する。彼らはヒンズー教徒の中でも、現パキスタンのシンド州出身の人びとで、アジア、南北アメリカ、アフリカなど、世界各地に商圏をひろげて活躍する人びとである。

シンディで最も早くJDに名前が見られるのが、1890年版五二番地のアッソムル商会W.Assomullである。その後、ポーマル、T・モトマルなどが渡来して開業し、先来のパールスィーをしのぐようになる。

さて、アドバニ家の来日に先立ち、チャンドル氏の母方の祖父にあたるタラチャンド・パースラムが横浜に進出していた。

JDでタラチャンド・パースラム商会T.Parsram & Co.は1905年版から見られる。そして、その2年後の1907年版に同商会のマネージャーとして、J・S・アドバニAdvaniの名前がある(図1)。チャンドル氏によれば、この人物は直系ではないが、親戚だという。その後、父が1917年に来日し、タラチャンド・パースラム商会で働いたという。

図1 164番地のT・パースラム商会 Japan Directory 1907年版より
図1 164番地のT・パースラム商会 Japan Directory 1907年版より

また1908年版では、246番地にポーマル兄弟商会Pohoomull Bros.の記載があり、マネージャーにH・P・アドバニの名前が見られる。この人物はチャンドル氏の祖父の兄である。

名前からインド系と判断した限りではあるが、JDの記載数は、1884年版と85年版では一件であったが、1890年版では4件、1895年版では9件、1897年版では12件、1900年版では19件、1915年版では30件と増加していく。震災以前にはインド商館の数は60あまりと言われるが(『横浜輸出絹業史』)、1920年版のJD記載数は64件であった。

チャンドル氏の関係については、1923年版のJDでは、H・P・アドバニ氏は201番地のペソマル・ムルチャンド商会Pessoomull Mulchandのマネージャーであり、ポーマル兄弟商会とタラチャンド・パースラム商会の記載も見られる。

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